■ 5 ■

結局ここに舞い戻ってきた。

テーブルの上に卯ノ花から奪還した鞄を放り出して
とりあえずソファーに座ろうとしたが、
先ほどの保健室のやりとりで喉がめちゃくちゃ渇いていた。

そのまま冷蔵庫のほうに向かいすぐに飲めるものはないか中を物色したが、
なぜか茶筒と
なぜか寿司折りに入っている魚の形した醤油入れが入っているだけだった。

なんでこんなもんが冷蔵庫に入っているんだ?

まずは茶筒からだ。

これはもしかして中身は茶葉でなく要冷蔵のなにかなのか?
蓋を開けてみると何のことはない、やはり普通に茶葉が入っていた。

誰が茶葉冷やしやがったんだと思い起こせばウル川が昨日ここで茶を(激しく)淹れていた。
俺はそれからここで茶は飲んでないから茶葉冷やしやがったのもウル川だろう。
何のつもりだ。
まさかこれで「よく冷えたお茶あります」とかやるつもりか?
こっちの背筋が冷えるわ。

そして次に魚の醤油入れだ。

これに至ってはもう考えることを脳が拒絶する。
あえて考えるなら…

笑いを取るためか?

そりゃご苦労だが、やはりこれも冷える。


仕方がないので、その茶筒の中のよく冷えた茶葉を急須に入れる。
湯沸かしポットから湯を注いでそのまま湯のみに淹れようとしたとき
このままこの急須をウル川がやったように激しく振ってみたい衝動に駆られた。
果たしてこのまま激しく振るだけであんな美味い茶になるのか?
確かめてみたい気持ちもある。

そして好奇心には勝てなかった。

俺は少し腰を落としてかがみ、手にした急須と同じ高さにまで目線を落としてそろそろと急須を振ってみた。
急須の中で液体がタプンタプンしているのがわかる。
おそらくこれでもう茶葉は中で湯にもみくちゃにされていることだろう。
湯に体をしとどに濡らされ、
そしておずおずと葉を開かされ、
そして自身の茶成分を熱い湯の中に滲ませ沁ませながら
めくるめく湯のウェーブに身を任せているに違いない。

しかし違うんだ。
泡だ。
泡がたっていた。
あれほどの泡立ちならばもっと激しい揺れを加えなくてはいけないだろう。
泡が出るということは液体に空気が混ざるということだ。
横波だけでなく縦波も加える必要も考慮に入れなければならない。
荒々しいどころの話じゃねえ。
湯と空気と茶葉の3Pストリームだ。
しかしそんなことをしたら急須の蓋がたまらず飛んで落ちてしまう。
それを防ぐには急須を持っている反対側の手で急須の蓋を押さえて振るのがいい。
だが、ウル川は片手のみでこの振動作業をやってのけていた。
急須を持つ手の親指で押さえていたのかも知れない。

早速やってみるも、これは上手い方法ではなかった。
親指で蓋を押さえることは出来るが、そうなると急須本体に手指がかなり密着する。
急須には高温の湯が入っているからその熱が急須に伝わり急須本体の温度が上がっている。
つまり熱くて持てないのである。
触れられないというわけではないが、持ってそのまま振動運動を加え続けるには素手では無理だ。

はてさて、やはり左右運動のみなのか?
蓋を押さえるのは諦めて再び左右運動に戻る。
こうなれば左右運動を極限にまで激しくして
湯を急須内壁面に叩きつけることで起きる波で空気を巻き込むしかなかろう。

いわゆる「ざっぱーん」だ。

防波堤に打ちつける潮のごとし。
ああ海が見たいな。
そうだ夏休み黒崎誘って熱海とか伊東とか行こうか。
泳ぐんじゃない。
防波堤に打ちつける波が見たいだけだ。
ボーナス出るからちょ奮発して、
湘南とか御宿みたいなチャラチャラしてない大人の海のしっぽりとした楽しみ方をだな。
温泉もいいなぁ。箱根とか。
渋いぞ夏休みに箱根。
しかし箱根は海ないしな。
まぁいいか。
海見たい温泉浸かりたいは結局口実で、
とどのつまりは黒崎と一発じゃない一泊やりたいだけなんだろよ俺ってやつは。
   

で、何だった?

ああ茶だ。茶を振ってる最中だった。

心ここにあらずと無心は内実は全く違うが、
結果として同じ作業結果を生み出すことがある。
海だの一発だの考えている間俺はただひたすらに急須を振っていたようだ。
惜しむらくは激しくは振れなかったが、そろそろいいだろうと湯のみに茶を注いでみた。

泡は…たっていなかった。
軽く落胆した。
しかし泡より味だ。
ていうかなんか凄い茶葉砕けまくって見た目回転寿司屋のセルフで入れる粉の茶みたいになってるんだが。
しかし問題は味。
とりあえずソファーに座る。
そして恐る恐る飲んでみて、もう世界なんかどうにでもなれと一瞬思った。
ソファーに座っていたおかげで襲いかかってくる脱力感のために倒れ込むという大惨事にならずに済んだからまだ良かった。
世界はかろうじてまだ保たれている。

不味かった。
ただただ不味かった。
なんか砕けた茶葉が歯茎に触ってざらついて喉は渇いていたがこれ以上は飲めたもんじゃなかった。

俺が前々からイミフな習い事だと思ってたものの一つに茶道がある。
粉の茶と茶葉という違いはあるが
茶の淹れ方習うのになんで入門だの師範だの家元だのあるんだと思ってたが奥の深い世界だったんだな。
やはり素人が見よう見まねで淹れるのと、きっちり習ったやつが淹れるのとでは違うのだろう。
もうこれからは見合いの席で茶道嗜んでますとか言って澄ましてやがる相手を内心バカにするのは止めておこう。
どっちにしろどうせ断るけどな。

やっぱり普通に淹れた茶を飲もうと
湯のみになみなみの不味い液体をシンクに空けてしまうべくよろよろと立ち上がったとき、ドアをノックする音がした。

誰だよ。

俺今取り返しのつかないことをしちまって落ち込んでるんだよ。
もー茶葉が。
茶葉さん変な淹れ方して台無しにしてごめんなさいだ。

またノック。

そこで我に返った。

黒崎だ。
そうだ、ここに戻ったのは別に不味い茶を飲んで心の底から打ちひしがれるためじゃなくて…

生・徒・指・導

だった。
いや、教育かも知れん。

首筋に意味深な絆創膏はっつけて涼しい顔してるまだまだガキな黒崎に、
それがいかにヤバいことなのかをみっちり教えてやるために大人の俺は はるばるリターンしてきたんだ。

そうだったそうだった。
しかし不味い茶に思いの外時間を取られてしまってスタンバイもイメトレも出来ていない。
というか茶すらちゃんと飲めてない。
まだ喉がイガイガする。
しかしだからといって茶淹れ直して飲むから外で待ってろという訳にはいかない。
茶は黒崎が居ても淹れられるし飲めるじゃないか。
ていうか一緒に飲めばいいじゃないか。

イガイガする喉の調子をとりあえず咳払いで鎮めてから
『開いてるぞ』
と声をかけると背後からドアのガチャリの音のあと失礼しますと声が続き、それからバタンとドアの閉まる音がした。

振り向けば…ああ〜

やっぱり眩しい。
おろして間もない制服に着替えた黒崎がドアの前で所在なさげに立っていた。

卯ノ花のアドバイス通り、輝く真っ白いシャツの襟はボタンが上まできっちり留められておらず、
首筋の露出は朝より高い。
にも関わらずこうして絆創膏ナシの状態で見ると
首の擦過痕はまったく目立たない。
あんな絆創膏なんかはっつけてなかったら、俺も気付かなかっただろう。

『まぁ、座れや』
と急須を持ったままのほうの手でソファーを指し示した。

『茶淹れてたんだけどな…失敗した』

『失敗?』
黒崎は示された場所に座りながら鸚鵡返しに聞いてきた。

『おう。急須振りまくったら茶が美味くなるって聞いたことあるか?振ってみたが不味い。振り方が悪いのか』
急須を見せながら問うと黒崎はうーんと考えこむような仕草をした。

そして
『醤油垂らしたらってのは聞いたことあるけど振って味が善くなるってのは聞いたことがありません』
と授業中に指したときにはかく答えるべしというような
模範的な答えかたで返事が返ってきた。

しかも内容が興味深い。
『醤油?』

冷蔵庫の中の魚の醤油入れを思い出した。

『煎餅にお茶が合うの感じで塩味をちょっと入れたらお茶だけで何杯もいけるって話、テレビかなんかで聞いたことが』

そうか、それか。
醤油入れたのかウル川のやつ。
それで魚の醤油入れだったわけだ。
笑いを取るためじゃなかったのか。

『それ、やったら泡立つもんか?』
『わかりません。激しく振れば泡立つかも』

醤油か。
入れてみようか。

『やってみるか?』

ワクワクしてきた。

『先生がやりたいなら。でもまた失敗しても俺のせいにしないで下さいよ』
『黒崎情報に間違いはないだろ』
『そんな買いかぶられると、ちょっと自信ないです』
『誰もお前のせいにしねぇよ』

急須を持って冷蔵庫に近付き、中から魚の醤油入れを取り出す。
戻ってテーブルの上の鞄をよけて急須と醤油入れを置いたら、黒崎は なんでこんなもんがここに? と言いたげな顔をしていた。

その戸惑う顔も可愛らしいのでそれを楽しみながら急須の蓋を取り、
醤油入れの赤いキャップを摘み回して外して
『どれくらい?』
とその目を伺いながら訊くと
『だから知りません。垂らすくらいだから1、2滴でしょ』
と本気で困った顔になった。

さすがに悪いなと思ったので
『悪ィな。妙なことに突き合わせて』
と謝ると目をパチパチさせてから『俺も貰っていいですか?着替えてソッコー来たんで』
と訊くからいいぜと答える。
そしたらニコッと笑った。
これがまた眩しい。

『呼び出してすまんな。なんか予定あったか?』
言いながら醤油入れの魚のボディを摘まんでいるんだがその1、2滴がなかなか上手く出てこない。
黒崎も俺の指先作業を見つめながら答えた。
『別に予定は…なかったから』

アイツとも?と言いかけて止めた。
余計な力が魚に加わったのか魚は口から黒い液体をもにょっと吐き出した。
しまった出しすぎかと思って慌てて指先の力を緩めたら、
もにょっと出ただけでまた黒い液体は魚の口にピュッと吸い込まれてしまった。

『?』  黒崎のほうを見ると黒崎も
『?』  て顔になっていた。

テーブルを挟んで差し向かいで顔を見合わせる。

今の黒い液体の動きは明らかにそれが醤油のようなサラサラではなく
ある程度の粘度がある事を示していた。

『それ、中入ってるの醤油なんですか?』
『…だと、思うんだが』
『腐ってるとか…』
『醤油自体に殺菌作用があるからな。不味くなっても腐ることはないはずだぜ』
『ちょ、貸して下さい』

魚の醤油入れを黒崎に渡す。
黒崎はくんくん匂ったり、魚の口からもにょっと黒いのをちょっと出して翳してみたりしていたが、
お手上げですって顔になり、俺に魚を手渡しながら
『せんせ…やめといたほうが…』
と言った。

『そだな』
全く同感だった。
こんなわかりやすい入れ物に入っているから醤油だと信じて疑わなかったが、
なにやら得体の知れない液体かも知れねぇ。
これがウル川の仕業なら、どういうつもりなのか?
というか、昨日の美味い茶も、もしかしたらこの怪しい液体のせいであんな毒々しく泡立っていたのだろうか。
ウル川ならやりそうだ。
ちびちびと得体の知れんものを摂取させて一体俺をどうしたいんだ。

今日の俺のローテンションも黒崎の絆創膏に負うところが多かったが、
昨日の怪しい茶の作用もあながちなかったとは言えない。

まじで背筋が冷たい。


…で、何だった?
ああ茶だ。
なんとか美味い茶が飲みたかったんだが、もう普通に茶淹れることにするわ。
この謎の液体の正体はまたウル川を問い詰めて…って出来るのか?
よしんば問い詰めることが出来たとして、あいつが正直に話すとは思えんのだが…。

ていうか、茶、茶、て、違うだろが。
茶はただ飲みたかっただけで俺はなんでわざわざ黒崎呼び出して放課後の生徒指導室にいるんだ?
うれしはずかし☆生☆徒☆指☆導☆だろが。
そんな中になんで茶を振り回したり振り回されなきゃいかんのだ。
茶なんか飲めりゃいいだけだろが。

あほらしい。

『ちょ、待ってろ。普通に茶淹れるぜ』
ずいぶん回り道をしてしまったが、俺は俺なりの淹れ方でやっぱりやる。
自分の身丈以上の幸せをむやみに望むと、遠回りばかりでなく悪くすればもとからあったささやかな幸せも粉粉にぶち壊すてことだ。

散々振り混ぜて粉粉になってしまった茶葉を捨てる。
俺が余計なことしなけりゃあこいつはまともな茶になってたろう。
もったいないお化けが出そうだ。

…ていうか、何だった?

ああ、♪生♪徒♪指♪導♪だ。

うれしはずかしの…。




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