■ 3 ■
結局昼からの授業で受け持つコマはなかったから、
俺は昼飯を食ったあとも生徒指導室のソファーでごろごろしてた。
なんか忘れてるような気がしたが頭も体も動きたくないと言っている。
キラキラのぴかぴかのふわふわの黒崎のことも、
その首筋の絆創膏のことも考えたいくせに、考えはじめると頭が痛い。
部屋は明るくて、開け放した窓から体育の授業中の生徒の歓声が聞こえる。
歓声というよりも怒声に近く、時折なにかがどこかにぶつかるような音がするから、
球技でガチゲームでもやってるのかも知れない。
ヤミ野サボってるな。
生徒に勝手にやらせといて、自分はベンチで本日何個目かの弁当を食っているんだろう。
ふいに誰かの気配がした。
ソファーに横になったまま目だけ開けると、そこには見ず知らずの真っ黒い男が立っていた。
ひょろりとした長身に蓬髪&無精髭。おまけに幅の細いグラサンかけてデカい鞄を抱えている。
何から何まで黒づくめ。
なに路線だよ?
あからさまに怪しすぎる。
しまったドアの鍵をかけ忘れたと後悔したがもう遅い。
いきなり男は断りもなく向かいのソファーにすちゃりと座り込み
『これからは英語の時代だ』
と言いながら、鞄の中からポータブルCDプレーヤーを取り出してこれ見よがしに見せつけながらスイッチオンした。
英語がどうとか言ってやがったから、てっきり英語のフレーズが流れてくるかと思いきや
始まったのは日本国憲法第九条の朗読だった。
『ン日本国民はァッ、正義とォ秩序ゥオ基調ォとする国際平和をゥ誠実にィ希求しィッ…』
どこのどいつだか知らんが素人じゃねぇな。
妙にリズミカルでこのまま歌い出しそうなたっぷりとした野郎の声に
ソファーに突っ伏したままうっかり聞き惚れてしまった。
そして馴染みの不動産屋の親父の店にいるヒゲメガネエプロン男を思い出した。好みじゃないが。
男はどうだ?みたいな顔してる。
どうだ?て言われてもなぁ。
ていうかお前誰だよ?
何セールス?
何が売りたいの?
…ていう夢を見た。いつから寝てしまったんだろう。
ソファーから体を起こすと当然向かいに黒い男の姿は、なかった。
つか、居たら怖いわ。
明るかった部屋は寝起きのせいか少し薄暗く見えた。
さて何時間寝てしまったのかと壁の時計を見れば六限目真っ最中だった。
なんか忘れてるような気がする。
黒崎のことだっけ?
いや違う。
それは今あえて忘れてるだけだ。
なんか頭使わなくても出来るようなことだが、
わざわざするのがおっくうで気後れするあれこれもあったから帰り際にやろうと思ったのは確かだから…
ああ。マエバリだ。
赤パインの歯科検診のマエバリ保健の卯ノ花に渡さねーといけねんだった。
くそ。
預からなくても赤パイン本人にマエバリ届けさせりゃ良かったんだ。
そしたら卯ノ花に会わなくて済んだっちゅうのに。
よろよろと立ち上がる。
中途半端に寝たあとの脱力感がこれが結構好きなんだが、
重たい用をしなければならないときにはただただダルいだけだ。
それでも窓を閉め、テーブルの上に置きっぱになってる昼食ったコンビニ弁当の残骸を片付けてから部屋を出る。
そして重い足取りながら、出席簿から抜いて机の上に置いたままになっているマエバリを取りに職員室に向かった。
職員室は授業中のせいか誰も居なかった。
自分の机の上に放置されているマエバリと、
そして保健室に寄ったらそのまま直帰するつもりで居たからついでに鞄も抱えた時、
近くのヤミ野の机の上をうっかり見てしまい目が点になった。
なんというか
…マンハッタンだった。
そのビルひとつひとつが高く積み上げられた弁当箱である。
何個あったんだろう…?
ウエッとなったから数えてない。
しかし保健の卯ノ花が実は苦手だ。
楚々る美人ではあるが、聖母ばりの微笑みから繰り出される言葉がなんとも毒を孕んでいる。
大のオッサンがワッと泣き出してトイレに駆け込みそのまま泣き濡れて三時間くらい出て来れないようなえげつない毒舌ではないが、
聞いててケツアナがキュッとなる言葉を涼しい顔してシレッと吐く。
言葉の威力だけでケツバージンをどうにかされそうで怖い。
ありゃどSだろうなぁ。
尻に敷かれそうだ。
そして精神的に尻をボロボロにされるんだ。
マエバリ渡したらダッシュで逃げようと覚悟を決めて保健室のドアをノックする。
…
返事がない…
居ないのか?
なんという幸運だ。
マエバリ机の上に置いて逃げよう。
でも、返事が聞こえなかっただけで居るかもしれねぇ。
居るかもしれねぇ。
居るかもしれねぇじゃねぇか。
恐る恐るドアを開けたらツンと消毒液の匂いがした。実はこれも苦手だ。
覗きこむと誰も居ない…ってことはなくて…
…居た。
居たけど…
卯ノ花じゃなくて…
黒崎だった。
なんという幸運…?
それとも不運?
『先生?』
黒崎は体操服姿だった。
あの光を放つおろして間もない制服姿ではないというのに、
やっぱり眩しくてその顔がまともに見れない。
いや、顔がまともに見れないのは…。
首の…
なかなか顔を見ようとしないチキンな俺の目線は、
そのくせにこそこそと黒崎の左の首筋あたりを舐めまわす。
体操服の襟が立っているので、問題の絆創膏がすっかり隠れている。
隠れているからって、きっと絆創膏は今も黒崎の首筋に張り付いて黒崎の秘密を覆ってるんだろうが、
視覚的に見えないことが俺の動揺を最小限に留めてくれた。
『どした?体育中に気分悪くなったか?』
と声をかける。
気分が悪いと言えばヤミ野の弁当だ。
量考えただけでムカムカしてくる。
あれ食う場面に遭遇しなくて良かったぜ。
あっもしかして黒崎、体育中にヤミ野の弁当見たとか?
なんとか出した第一声が予想外に上々の出来だったから、またさらに動揺を抑えることができた。
きっともう見た目はクールでナイスな俺に違いない。
『いや、違うんですけど』
『?…卯ノ花は?』
『来た時から居なくて。俺、絆創膏もらいに来たんだけど…勝手に貰ってっちゃダメすよね?』
ばっ…
絆・創・膏…だと?
ダメだ。さっき即座に作り上げた見た目クールでナイスな俺がちっぽけなシールひとつで瓦解していく。
おまけに
『体育してたら汗で剥がれちゃって』
と襟の上からだが件の首筋に手をやるもんだから、もう最後の砦の教師の仮面までミシミシとヒビが入りだした。
しかし努めて涼しい顔を繕う。
だが表面を繕ったって言葉がささくれ立っていた。
『そりゃ困るよな。お楽しみのあとが丸見えになっちゃあなぁ』
『え?』と声が返ってきたが、
無視してその顔を見ないように黒崎の脇をすり抜けて奥に進み、
事務机の開いたスペースに上から押さえつけるようにマエバリを置く。
そしてそのままその腕を支えにして前のめりに机周りを物色した。
机の隅に小さな引き出しがたくさんある箱が目についた。
ガーゼだのテープだのある中に『絆創膏』と書かれたラベルを見つける。
引き出しを引くときれいに大きさ分けされた絆創膏が入っていた。
標準サイズを一枚失敬して後ろ手に黒崎に渡す。
振り返らなかったが、受け取ったのがわかった。
『俺が卯ノ花に言っとくから持ってけ』
支えにした右手の下でマエバリがクシャリと音を立てる。
見れば指先が白くなっていた。
『あの…せんせ…』
『あ?まだ何かあんのか?』
指先を見ていた目を恐る恐る黒崎のほうにずらす。
なに、顔を見なけりゃいいんだ。
そうしたらきっと覗かれない。
何を覗かれないって?
そりゃ…
俺が嫉妬してるってこと。
知らない所でちちくりあってる黒崎とあいつに俺はイラついている。
そしてお前の首にはその証が誇らしげに刻まれてるんだろが。
『体育中だろ…』
運動場に戻れと続けようとして不意に視界をなにかに遮られた。
はっとして思わず目を閉じたが再び目を開けて見ると明るい色の瞳が映る。
黒崎は俯く俺の顔を下から覗きこんでいる。
明るい色の瞳に映りこんでいるであろう俺の姿はひどく無様に歪んでいるような気がした。
覗かれて、いる。
息使いまで感じるくらい近い距離に耐えられなくなり、またマエバリに視線を戻す。
覗かれちまったか。
また遠くで生徒の声がする。
体育中の黒崎のクラスメイトか。
つか、俺のクラスのやつらか。
赤パインの声がしたような気がした。
あいつ声もデカいからな。
『せんせ…具合悪いんですか?』
とまっすぐな声が届く。
具合?
ああ、悪いよ。
思っきし悪いぜ。
誰かさんのせいでな。
だが、気取らないように声を振り絞る。
『なんでもねぇよ』
覗いたくせに。
俺ン中にあるもやもやしたイラつきを。
開き直って黒崎に向き直る。
黒崎は悪びれのかけらすらないまん丸な目で俺の様子を窺っている。
俺が気付いてないと思ってんのか?
わからせてやろうか。
大人を舐めンなよ。
嫉妬にトチ狂った大人がどんなぶっさいくなことすんのか教えてやろう。
それが傷口に塩を塗り込むようなもんだと分かっていながら、分かっていながら、その襟に手をかけようと手を伸ばしたとき、
『なんでもないのならお引き取り下さいな。
ここは怪我人や病人を擁護する場所です。
教師と生徒の雑談なら教室や生徒指導室があるではありませんか』
と、流麗な声が凛と響いた。
見れば卯ノ花が戸口に立っていた。
伸ばした手が進退極まりない。
そしてケツアナがキュッとなった。
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