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当初の予定じゃ、帰るつもりでいたんだが。
おそらくしばらくその目的は達成されなさそうだ。

まず、六限目も終わってないうちから鞄持ってたのが卯ノ花の目に止まり

『今からご出張ですか?永遠に』

と言われちまった。

とっさにマエバリを届けに来たことを言い訳に、
生徒の個人情報だからファイル代わりに鞄に入れて来たなんて言ってみたところで、
黒崎には鞄の中にマエバリを入れてなかったことなんざとっくにバレてるから、
それを考えると非常にきまりが悪い。



ほとほと卯ノ花は苦手だ。
こういう下手な言い訳をさせてその慌てっぷりを楽しんでるのかも知れない。

だが、もう十分楽しんだのか、
なんだかんだで見た目堂々とは振る舞えてる俺の言い訳を鵜呑みにしやがったか、
どっちなのかはその笑みからは伺い知れなかったが、
卯ノ花は
『なにはともあれ、届けてくださって有難うございます』
と、俺への詰問をそこで切り上げた。
助かった。

でも、これで俺は帰れなくなった。


そして次だ。

卯ノ花は俺の左を見やり、そこに立っている黒崎に来室の意図を訊ねた。

しかし、なんで黒崎はこの女を前にそんな普通で居られるんだ?
ケツアナキュッてなんないの?
俺なんぞいはもうさっきから卯ノ花がなんか言う度にキュッキュキュッキュしまくってるぞ。
お前のケツアナが特別なの?
まぁ俺的には、お前のときたらそりゃ特別すぎるくらい素晴らしく特別なんだけどな。

ていうか、キュッ♪てするのは俺の前だけでいいんだけどよ…


…で、何だった?

ここんとこ思考が蠅みたいにあっち飛びこっち飛びして困る。
しかも時々あらぬ所に止まって
そこでせわしなく必死に祈ったり願ったりとかしてしまうとこまで似てる気がする。
俺も神がかって来てんのか?

で、何だっけ?

ああ、黒崎がなんで保健室に来てるのかだ。

俺は聞いたぜ。
絆創膏だよな。
首筋の…。

『うちで貼ってきた絆創膏が剥がれたから新しいの貰いに来ました』
ほんと毛ほどの悪びれもない。
おそらくケツアナも無反応だろう。
そゆのは…俺わかるんだぜ黒崎の場合。

でもって、

『どこか怪我なさってるのですか?』
という卯ノ花の問いにも、慌てるどころか

『ここの、首んとこ』

と件の左首筋を示し、
あまつさえ体操服の襟をずらして見せるもんだから俺が焦った。

卯ノ花は首を傾げて覗き込み
『失礼』
と言ってから、もう貼り付く力もなくただ載っかっているだけになってるであろう秘密の覆いをペロリと取り除く。

とっさに見ちゃいけねぇと目を背ける。


しかしそんなことをしなくったって黒崎は左側に立っているから
俺のほうからは絆創膏に隠されていたシルシは見えやしない。

窓の外をつまらんそうに見るフリをして卯ノ花と黒崎の会話に全神経を集中する。
無論、外なんか見ちゃいない。
今の俺なら全裸の何者かが窓の外を横切ったとしても、もれなくスルー出来る。
黒崎なら別だが黒崎は今ここにいる。

それにしても、なぁ!
なんでそんな堂々と見せられるんだ?
バレるもんじゃないとか思ってんのか?

大人を舐めンなよ…。

『あらあら、これはいつ?』
と、卯ノ花の声がする。

昨日だろが!
でもって「あらあら」って何だよ。
気づけ…よ…

って俺は気づいて欲しいのか?

黒崎の秘密を第三者に暴いて欲しいのか?

まぁ…この場合…俺も第三者…なんだが。

隣に居るのにこんなにも遠い。
今祈っても願ってもお前には届かないだろう。

『わかりません。昨日風呂入るとき痛いなぁって見たらこんなになってて』

しらバッくれるなァァァァ!
大人舐めすぎだろが!

『何かで擦ったみたいですね』

コスッたんじゃなくて、噛んで舐(ねぶ)りつかれたんだろが。
コスられたのはもっと秘めやかな別んところだろ!

フリで見ている窓の外、しつこいようだが引き続き絶賛スルー御礼中だ。

今、校庭に使徒だか暴徒だかニートだかが踊り込んで来ても、
きっと俺は絶対気づかない自信がある。
そんなもん、
俺の中でトチ狂っているバケモンに比べりゃ可愛いもんだ。

目から血が出そうである。

そんな俺の嵐の内面とは裏腹に、
保健室は静かに生徒と保健医の会話を窓からの優しい風にくるんでいる
…ことだろう。

あと、横でぼーっと突っ立って祈りを呪いに変えて静かに猛り立つ高校教師(♂)にも等しく風は吹く。


『おろしたてのカッターシャツとか着ませんでしたか?』

シャツ?だと?
教室での光輝く黒崎を思い出す。
白くてキラキラでピカピカでふわふわの…。

『昨日から制服新しいの着てますけど』
そうそう、
月に帰ってしまいそうなほど眩しいんだよこれが。
それに惹かれた赤犬が…ガブリと…

『それですね。襟の部分の糊がよく利いてまだ固いのでしょう。
 擦られたのでしょうね。今は痛みますか?』

おぅおぅそうだろうよ。
痛くなるまでコスられて、
でもってエリの部分までこんなに硬くなってんじゃねぇかいやらしいガキだ…。

………

あれ…?

??



さっきの妄想、どっかなんかおかしくねぇか?

てか、エリって硬くなったっけ?
ナニとか乳首なら、硬くなるけどよ…うん。

ていうか
エリ?

エリって何?
エリがどうかした?

サァァと一際強い風が吹いてカーテンの端がふわりと俺の視界を掠めた。


そこでハッと気が付いた。

呪いが解ける。

エリは襟か!そういうことか。


あの、真新しいシャツの襟。
あれが…固くて首んとこに当たってコスれたのか。

ああ、
確かに、確かに同じような経験…あるぜ。


思わず一歩後退って黒崎の背後にまわりこみ、その首筋を後ろからそっとガン見する。
確かに白い肌の上には小さな擦過痕。

番犬の歯型でもなく。
赤いドラキュラの食事跡でもなく。


『先生、何見てらっしゃるんですか』

卯ノ花の一喝でまたケツアナがキュッとなった。
黒崎も振り向く。
目が合った。

黒崎の丸い目は「どしたのせんせ?」と言っているように見えた。

俺は慌ててなんでもないぜポーズをキメてみた。
なんでもないぜポーズ、即ち漫画やドラマでよくあるそっぽを向くやつだ。
キマった!
だが口元がにやついてしまったのは許してくれ。


そか。
犯人はあのおろしたての…

こりゃお仕置きかも知んねーぞ。
あんなやつ、黒崎からへっぺがして床にバサリだ。
どうだ参ったか!
俺をどん底まで凹ませた罰にしちゃまだ軽い軽い。
まぁ黒崎をキラキラのピカピカのふわふわにしてくれた恩はあるからな。
これくらいにしといてやるってもんだ!

でもって俺は黒崎のほうを…と…。


さっきまでのヨロヨロのイライラのウダウダとはうって変わり、
ヘラヘラのニヤニヤのグフグフが止まらない。
卯ノ花が呆れたような視線をちらちら寄越すが、
ニンマリしてやったら次に可哀想な人を見る目になった(気がした)。

しかし、すぐに卯ノ花は黒崎に向き直り、

『もう痛みがないようでしたら、あとは空気にさらしていたほうが早く治りますよ。
 血もでていないですし、まだ新しい制服が擦れるなら襟をゆったり留めていれば大丈夫でしょう』

と大きく広げられていた体操服の襟を直した。

そして、
『それにそんなところに絆創膏を貼っていると、あらぬ誤解をして心配される方もいらっしゃいますし』
と続けながら俺を見る。

『そうですよね、先生?』

窓から気持ち良い風が吹き込んでいたはずの保健室だったが、一瞬空気が固まった気がした。

黒崎がまた振り返る。

『えっ?誤解って?』

ケツアナもまたキュッとなる。

もう、
あばばばばばばだ。


俺は顔の前で慌ただしく手を振って「別に別に」のジェスチャーをして見せたが、
卯ノ花は全てお見通しですよみたいに目を細めて

『心配されてたんですよね?』
と続けた。

焦った。
次何言われるかわかったもんじゃねぇ。

しかし卯ノ花はそのままそれについては何も言わず、

『はい、私の保健医としての仕事はここまで。あとは先生にお任せしますね。
 生徒指導室なり教室なりで続きをなさってくださいな』
とにっこり締めくくった。

黒崎は怪訝そうな目をしたまま。



そして保健室の前。

解放された喜びと安堵感に思わず家に帰ったような錯覚を覚えて、
頭をばりばり掻きながら反対の手がネクタイに伸びていた。
そして結び目を鳩尾くらいまで下ろしたときハッとした。

まだ家じゃない。

そう、まだ帰れない。

慌てて結び目を引き上げる。
そして右隣を見ると黒崎が俺を見上げていた。

その瞳はなにか言いたげだ。
何を言わんとしているのかは…おおよそ察しは付いてるんだが。

しかし、中(保健室)での俺ときたら、バツの悪い醜態ばかり晒していたような気がする。

でもって今は今で、黒崎の怪訝そうな視線に曝されている。

非常にきまりが悪い。

何か切り出したいのに、うっかり家に帰った気になっちまったせいで完全にタイミングを逃しちまった。

なんだか後ろめたい沈黙が流れる。

でもってなんか忘れてるような気がする。

タバコが吸いたくなった。


『せんせ、』
沈黙を破ったのは黒崎からだった。

『あ?』
さっきのバツの悪さも手伝ってブッキラな答え方しちまった。
しかし、黒崎はそれどころじゃないくらいになんか必死っぽい。

『俺、なんかヤバかったですか?』
かなり動揺している。

おかげで、俺の威厳(?)はなんとか保たれているようだ。
それに便乗して鹿爪らしい顔で
『あ…うん…ちょっと…な』
と答えたら、もうトホホって顔になっちまった。
うわぁ…可愛ぇ。

白を切ってないってのは十分その瞳の真剣さが物語っている。
『首に絆創膏貼ってたから…ですか?』

ああ、やっぱり自覚ないんだな…。
でも、だからまっすぐ俺を見れたんだ。
ひとつもやましいことはしてないもんな黒崎。

俺が勝手にいやらしい想像して、勝手に焦って勝手に凹んで…
・・・ってもう、大人になんかなるもんじゃねぇな。

『そゆこと…だ。何でか知ってるか?』
子どもが首を振る。

『じゃ…、授業済んだら来い。その…俺でよかったら…じゃねぇ、俺が、教えてやっから』
「俺が」の部分に力が入っちまった。

どれぐらいヤバいのか大人の先生が、俺がきっちり教えてやるぜ。
でないと心配でしょうがねぇ。

『えと…どこに?』
『決まってんだろが』

嫌でも、そうして大人の階段を上らなきゃいけねぇんだ。
だったら踏み外さないようにきちんと足の踏み場を教えてやんのが
やらしい大人にできるせめてもの教育的指導だろう。


黒崎は目をぱちくりさせていたが、
すぐにコクリと頷いて「じゃ失礼します。後で」と言って回れ右をして走って行った。

『廊下走んなよ』と言いかけて、
あれ?この言葉、前にも…とか考えているうちに黒崎の姿はみるみる小さくなる。
そして一瞬ピタリと止まりこっちに手を振った。



祈りってやつは通じるときはお互いの距離が遠くても届くのだと俺も振り返す。
小さくて見えないが、黒崎がニコリと笑ったように見えた。

そしてその姿は今まで見た中で一番…眩しかった。


俺は回れ左をする。

当初の予定じゃ、帰るつもりでいたんだが。
おそらくしばらくその目的は達成されなさそうだ。

まだ家には帰れない。

つか、帰ってたまるか!


そして今から出勤だ!みたいな仕切り直しの気合いでそこから踏み出した時、ハッと思い出した。


大事なもん忘れてた。
こりゃどっちにしろこのままじゃ家には帰れない。


慌てて引き返す。

なんで、よりによって…と後悔したが仕方がない。
相当俺は動揺してたんだろう。

恐る恐るドアをノックする。
今度は良く通る声で直ぐに返事があった。

またケツアナがキュッとするのを感じながらそっとドアを開けると、
『どうされました?』
と声が降ってきた。

あのよ、まるで俺に今日初めて会いましたけど何か?みたいな態度止めてくんねーか?

いや、そんな生微温ィんじゃなくて、
「あらお久しぶり」みたいな。
違う。
もう完全に「どちらさまですか」状態だ。

俺がナニしに来たなんざとっくに気が付いてるくせによ。

俺がナニ求めてるかなんて分かってるくせによ。

知らん振りすんなよ。
涼しい顔しやがって。

悪かったよ。
もう忘れねぇから。



だから卯ノ花は苦手なんだ。

ほら、あんたの座ってるすぐ足元にあるだろが。

なぁ。

それ、
俺の鞄なんだよ。







そして六時限目終了のチャイムが鳴った。




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