■06


枕元の携帯に起こされた。
鳴り続ける携帯を手にし、見慣れない部屋にあれ?今俺どこで寝てるんだとぼんやり考え
無意識に通話ボタンを押して耳にあてる前に昨日までの全部を思い出した。

「やっと起きたか。このウスラネボケマン」
朝一にコイツの声は勘弁してくれと思った。
一週間前の会議室でやたら人の鞄を指差しえらい剣幕だったやつの顔がよぎる。
しかもウスラネボケマンとはなんというセンスだ。
破壊力はないがコイツが言うとじわじわ来る。

「へぇ…」力無く返事をする。寝起き声バレバレの筈だ。ウスラネボケマンの名前を献上されても文句は言えない。
「昨日入学式は知ってたか?」あ。そうだった。
「…忘れてた」
「だろうな。まぁいい。別に貴様は一年の担任じゃないからな。つかお前がいたらうざくてかなわん」
お互い様だ。

横で眠っていた黒崎が目を覚ましてじいっと俺の様子を伺う。
余計かとは思ったが人差し指を口に当てるジェスチャーをするとニコリと頷いて布団にくるまり目だけ出して見ている。


「ていうか貴様がクラス分けの草案持って帰るからこっちは大弱りだ。電話にも出ないしな!お陰でまたクラス編纂しなおしだ」
電話の向こうの東仙はまくしたてた。
「え?ソーアンて?」
「貴様に見せたアレだ。あれが決定稿だったのに貴様ボサッと鞄に入れて持って帰ったろうが」
「アレって…あの」
書き殴りの名簿。
「そう、あれだ。写しはなかったからな。だからクラス分けはやり直ししたんだ」
あの紙どこにやったっけ?
そんな大事なオンリーワンにはけして見えずただ思いきり俺を凹ませたあの紙。
引越しのバタバタでどっかいっちまった。
「今から来い。新クラスの準備があるだろう」
「えー?今から?」
「一週間も春眠したらいい加減暁を覚えろ。来い。今から来い。瞬歩で来い」
だからシュンポって何?多分なんらかの業界用語だろうが訳わからん上に笑えねぇ。
「無理。今俺引越し中」
「引越しィィィ?なんで今の時期引越しやってんだ?フレッシュマン気取りか?いつからお前はフレッシュマンになった?」
まさか東仙の口からフレッシュマンなんて言葉が出てくるとは思わなかったからこれはさすがに思わず笑ってしまった。
ウスラネボケマンの次はフレッシュマンと来た。
鼻で笑うような声は当然東仙に聞こえてるはずでとたんに東仙はさらに怒り心頭した。
それでも「とにかく今日中に来い。って夜中11時とかはナシだぞ。新クラスの引き継ぎは貴様が居らんと話にならん」
とかなりの譲歩で締めくくり、最後に「わかったな!フレッシュマンめ!」と吐き捨てて俺の返事も聞かずに電話をブチ切ってしまった。

ため息がでた。
引越しは終わってねぇ。
なのに今日来いだと?

「仕事…ですか?」
黒崎は布団から顔を出して覗き込んできた。
「まぁ。昼過ぎてから行くぜ。午前中は新しい部屋の鍵貰いにいかねーと引越し屋が来るし」
新しい部屋という言葉に黒崎は反応した。
「どこら辺なんですか?新しい部屋…」
『どこ』じゃなくて『どこら辺』と聞くところが奥ゆかしい。
「来るか?手伝ってくれや」と言うと「いいんですか?」とぱぁっと目を輝かせた。

「ていうか昨日て入学式だった…らしい」
「怒られました?行かなかったんじゃ…?」
「いや…怒られはしてねぇ」
見れば黒崎は「入学式だったのか」とひとりごちてなんだかニヤニヤしている。
「何?入学式がどうした?」
「俺、先生のこと絶対生徒だと思ってて」
「?」
「そしたら担任て言うからびっくりしました」
「ああ、あんときノータイだったんだ俺」
去年の入学式だ。
あの日俺はちゃんと黒いスーツに白タイで行ったのに
そのスーツがなんかいかがわしいだのホストみたいだの言われて東仙に脱がされたんだ。
で、上ワイシャツのまま白タイって俺的にかなり間抜けだったからいっそ外してしまって
だからあの日に限って言えば俺は教師には見えなかったかも知れねぇ。
あとで聞いた話だと保護者にはかなり顰蹙を買ったらしいが…
「でもあれですごく親近感湧きましたよ」
そうだ。生徒には受けが良かったんだ。

黒崎は過ぎた時間を懐かしむように目を細めている。
およそ16歳らしくない大人びた表情。
「じゃあ先生に会って一年たつんですね」
「あ。そうなるか」
「まぁ先生は最初多分俺のこと生徒の一人くらいにしか見てないだろうから会ったてのは変ですよね」
「いや…その日たしか俺、お前のこと見てるぜ」
お前髪の色で目立つから…と言いかけてやめた。
しかしモノクロな生徒の中に明るいオレンジの挿し色を見たのは覚えている
   (そういや赤いのも見た気がするがここでは無視)
確か教室は明るかったからいやにそれがキラキラして妙に目が離せなくて…
教室の後ろにつっ立ってる着飾った保護者らに近づいてプリントを配ってるときにもチラチラ気になった。
それで桜だ。
その挿し色の向こうに桜が散っているのが見えて…
そのあったかい色あいが妙にモノクロの教室の中で映えて…


あっと声が出た。
黒崎はびっくりして俺を見つめている。

「ロイじゃなくてお前か」
「ロイって誰っすか?」
「俺の中学んときの…」
「友だちですか?」
「友だちっつーか同じクラスのやつで…それが変なんだ。
 そいつ遠足で迷子になって捜索隊とか出て大騒ぎでやっと見つかったのに学校ん中じゃ抹殺でよ」
ついまくしたてた。
「ロイって人死んだんですか?」
「死んでねぇよ。誰がロイ抹殺だ。学校が生徒殺してどうすんだ。事件がだよ抹殺は。ロイ迷子事件が」
「なかったことに?」
我ながら突拍子もないネタ振りだとは思ったがそれでも黒崎は話に付いてくる。のみこみが早い。
「なってたんだ。気持ち悪ぃだろ?あんだけ騒いでて次の朝みんな素だぜ?普通なんかあるだろ?『ロイ大丈夫だったか』とか」
「変すね」
「ていうかロイもロイでなんか…幽霊みてーなやつで。居たはずなんだけど俺ほかにロイの記憶ねぇんだ。
 その事件がねぇと今多分ロイそのものも俺ァ覚えてねぇ」
すきっ歯だけが黒く塗り潰されたシルエットの中で笑う。
「で…なんでロイって人じゃなくて俺なんですか?」
見も知らぬ他人と自分がリンクされてる事に興味が湧いたのかそこに黒崎は食い付いてきた。
「いや、唯一ロイの姿で覚えてんのがその後ろ姿だったんだよ。
 向こう向いてる向こうに桜が見えててな。で、そんとき桜の時期じゃねぇのにッかしーなーとか思ってたんだよ。
 そしたら記憶違いだ。今気付いたぜ。入学式の日教室で座ってるお前の後ろ姿だったんだその桜がバックの風景は。
 あ〜なんか最近の記憶と昔の記憶が混ざってんな。ボケが始まったか」
前からですといきなりカウンターが来た。
あんぐりする俺に黒崎は首を振って冗談ですといい
「そういうの既視感とか言うやつじゃ?」と軌道修正。
小洒落た言葉知ってやがる。てか高校生の中じゃ慣用句なのか。
立ち直って答える。
「デジャヴじゃねぇな。そういうんじゃなくて」
ただの記憶違いだ。
だからもしかしてあの遠足の翌日の記憶もなにか別の日の朝の記憶と刷り変わっているだけかも知れねぇ。
そう思い込むことにした。
今はそれしか折り合いをつけられない。
もしかしたらこれだって今みたいな「解決」が待ってるかも知れねぇ。だからそれを気長にお人好しに待つことにしよう。

なぁ、人ってやつは、どうしていつも目の前にないものを追っちまうんだろう?
今ここにないなにかにいつも気を取られて
今目の前にある大切なものを見失う。

今、答えがここにないのならそれはまだ答えがないだけのことだ。
必要ならいつか答えは降ってくる。

探すから、
(俺もふくめて)人は、
迷う。

今俺に降ってきた「答え」がそれだった。
そして俺はそれに満足している。


俺の前で黒崎だけがニヤニヤしている。
「なんだ?」
「いや、なんか嬉しくて」
「俺のボケがかよ」
「違いますって。なんか俺が先生の昔の記憶の中に混じってるのが」
はにかんで笑う顔が眩しい。
「会う前からお前のこと知ってたみたいに思われてる感じで嬉しいです」
なんというポジティブ。
そしてこれが黒崎に降ってきた「答え」なんだろう。
「他人と間違ってんだぞ。気分よかないだろ」
首を振る黒崎。
「嬉しいですよ…」
仰向けになって天井を見上げている。
無防備な首筋が黒崎が喋るにあわせてピクリピクリと動くのをああ綺麗だなとぼんやり見ていた。
「そうやって先生の記憶全部が」
黒崎はこちらを向いて上体を起こす。
「全部俺の記憶に刷り変わればいいのに」

その言葉にいつか見る記憶が目覚める。
あれは給水塔の梯子だ。
上に上ってるのがガキの俺。
付いてくるのがガキの黒崎。
天辺まで上りきる。
この町の一番高みにいる二人の眼下にこの町が広がる。
ところどころ桜の挿し色にけぶる町。
三角の真昼の月。


そんな白昼夢を見ている俺にふいにもたれかかってくる黒崎の白い身体。

また別の記憶。

戦車の模型。
一緒に作ってるのは…黒崎だ。

首に手が回される。
俺も『全部』受け入れて抱き締める。
唇が触れる。

この感触を前から知っていた。
ずっと
 ずっと
  ずっと前から。

ゆっくりと押し倒す。
唇を離しかつての記憶を辿るように肌の感触をなぞる。

憶えてる。
寸分もたがわない。
そう思うのもおそらく気のせいだ。
だが…
全ては錯覚の上に成り立っていてだから楽しくも哀しくもなるんだ。

そしてその錯覚が思わぬ道を開くかも知れない。

あの錯覚の三角の月のように。




押し倒したのはちょっとヤバいと思った。
…むらむらしてきた。
これはさすがに錯覚ではなくがっつりと生理現象だ。
「ヤバい。やめとこ」と黒崎に笑いかける。

「いくらなんでも身体痛ぇだろ」というか時間もない。
引越し屋は午前中に来る。それまでに部屋に行かなくちゃなるめぇ。
しかし黒崎はこの状況をわかっているのかいないのか「痛いのは…」。

わかってるぜ。
だけどな。
「身体は大事にしてくれ。怪我させたらそれどころじゃねぇだろが」
起き上がって伸びをする。
「どっかで朝飯食ってこ」と立ち上がる。
脱衣所に向かいカゴの中に畳んであった黒崎の服をベッドに放る。
「風呂入ってくか?」
「どっちでもいいです」
いいながら黒崎は既にTシャツを被っている。
女と違って支度が早いから助かる。
顔だけ洗ってとっとと退散の準備は出来上がる。

そして例の…黒崎が自販機でわざわざ買ったアレ。
洗面所に半透明のシャワーキャップがあったからそれで包む。

「帰り事故にあわねぇように祈っててくれや」とジャケットのポケットにねじこんだ。
「いつでも事故には気をつけて下さいよ」
身に沁みた。
優しい子だな。

忘れものがないか確認してフロントに電話する。
電話の向こうでは「清算はドアの横の清算機で」と若干うっとうしそうな対応。
「わかってるけどよ。あれ、領収書出ねぇだろ?」
そう。ホームレスな一夜のお代はクロス屋に払わせる。
「『上』でいいから『宿泊代』で書いてくれや。用紙くらいあんだろ?一応商売なんだからよ。下りるとき寄るから作っててくれや」
黒崎は目をまるくしている。
ケチだと笑いたきゃ笑え。




国道沿いを来た方向に歩いているとファミレスがあったからそこで朝飯を食うことにした。

今度のメニューにはページがある。
たくさんの品書きの中から黒崎は釜あげうどんを選んだ。
なかなか通なチョイスに感心して「俺もそれにしよっか」と言うとこころなしか嬉しそうにしていた。

うどんが来る前に不動産屋に電話を入れる。
新しい部屋の大家だか管理人だかに渡すハンコつきの書類だのなんだのはこの親父に預けてあるので取りに行くか持ってきて貰うかの相談だ。
昨夜はどこ行ってただとか気にしてくれていたから「いいとこ」とはぐらかすといいスねぇ若いヒトはと親父は笑っていた。

『現地』集合になったのでファミレスを出たあとタクシーを拾う。
運転手に目的所在地を言うと、所在地でなくなにか周りの目印になる施設だの建物や店を教えろといいくさる。
知るかよ行ったことねぇしと噛みつくと黒崎が「多分そこ図書館の近くです」とナイスな口出しをしてくれた。
さすが地元である。
タクシーは一路図書館目指して走りだす。
「救急車だとな。住所番地まできっちり言わねーと来てくれねーんだ。
 駅前ですとか学校前ですとか言っても所在地で言え〜だぜ。家なら住所わかるけど外で怪我とかしたら普通わからねーよな」
俺がぶちぶち言ってると
「外から救急車呼んだことあるんですか?」黒崎は怪訝そうに聞く。
「まぁ。いろいろな」
いろいろごさったよ。
あまり自慢できるいろいろじゃねぇからそれだけ言って切り上げ、運転手に窓を開けてくれと頼んだ。
閉めきるには勿体無いよな陽気だったせいか運転手も気前よく開けてくれた。
「タクシーで窓開ける人先生が初めてですよ」と黒崎は言っていたが吹き込む春の風に満足そうだ。
「車はな、風感じて走る乗り物なんだよ」
閉めきってるから疾走感も半減する。
全部オープンカーにしちまえばスピード違反も事故も減ると思う。
閉めきられた空間では通り過ぎる風景はバーチャル化してしまう。
風景と自分は同じ空間にあるんだと考えたらきっともっと周りに遠慮して注意するだろう。空気を読むってのはそういうことなんだよ。

同じ町の中だからタクシーはすぐに図書館に着いた。
図書館の敷地内の桜が見事だ。
細かい番地は分からないという運転手には最初から期待しちゃいねぇ。
無駄に動いてメーター稼ごうがバレバレだったので早々に降りて今度は黒崎のナビゲートで歩く。
俺ん家に行くのに黒崎に丸投げで案内してもらうという変な案配になった。
町のあちこちの角に貼っついている所在地を頼りに歩くと
図書館からそう遠くないマンションの下にすでに不動産屋の親父とあともう一人いた。
多分ここの管理人だろう。

挨拶もそこそこに
「ここの六階スね」とマンションを仰ぎ見て不動産屋の親父は言い、次に黒崎を不躾に見た。
「ええと…息子サン?」なんでやねん!
「じゃ弟サン?」居ねぇよ!
「うちの生徒だ…えっと…」
「黒崎です。先生の引越し手伝いに来ました」
「そうそうそこで今さっき会って偶然だなぁって。暇そうだから連れてきた」
なんか余計なことを喋っているような気がする。
黒崎は礼儀正しいことこの上ないし俺は俺でやましい単語は並べてないが空々しさ満載だ。
親父はトレードマーク(?)の扇子で口を隠し意味深な含み笑い。
この所作のせいでおそらく年(よく知らないが)にそぐわない洒脱な雰囲気が醸される。

だから『不動産屋の兄ちゃん』ではなく『不動産屋の若旦那』でもない『不動産屋の親父』だ。

それから親父にもう一人の人物…管理人だかなんだかを紹介される。
なんだか病み上がりみたいな陰気な男だ。目線が落ち着いていない。
ぼそぼそと喋る男の声に少し苛ついたからわざと被せるように名前と職業、そして最後によろしくと言ってやった。
男は口篭ってから「よろしく」とこれまた聞き取りにくい声で返してきた。
この一瞬で関係のバランスが決定してしまった。
というかこういう管理人だからクロス業者もナメてかかったんじゃないか?

書類はすでに渡されているのか管理人は俺に部屋の鍵をスペア分を含めて二本渡して
視線を泳ぎまくらせながらペットは禁止だとか燃えるゴミは月木だとかごにょごにょと『唱えた』あと「それじゃ僕は…」とすっこんでしまった。
部屋に案内する積もりはないらしい。
病み上がりに見えたが今も病んでいるのかも知れねぇ。少しさっきの行動を反省した。

俺が鍵をアレの入ってるのとは反対のポケットにしまうのを見てそれじゃアタシもと親父も踵を返す。
ありがとさんとその後ろ姿を見送ろうとした時「あ、そうそう」と急に振り返られた。
軽く固まっていると「ここね。結構壁薄いんスよ」とまた含み笑い。
わかった。気ィつけるしと言うとなぜか俺でなく黒崎の方を見ながら
「そゆことですからお願いしますね。黒崎サン」
えっ?
どういう意味だ?
慌てて見ると黒崎はみるみる顔を真っ赤にしてうつ向いてしまった。

親父はカラカラと笑い
「か〜いい生徒サンじゃないスか。大切にしたげて下さいね。センセイ」とやたらセンセイを強調し、
そして置き土産のように笑いながら俺の鼻の頭にパチキを入れてきた。
「次は風呂の広い部屋にしますかね?」
かみすぎたときみたいなツーンとくる鼻の痛みに耐えながらいらねぇよ余計なお世話だと言う俺の怒声に見送られながら
親父はカラカラと笑いカラカラと下駄を鳴らして退散した。


残された俺らの間になんか妙な空気が流れる。
サクラサク明るい春の午前中だと言うのにここだけ妖しさいっぱいだ。
黒崎は「バレるもんなんすかね?」とまだ顔の赤さが取れない。
「わかるやつにはわかるけどよ…そういうやつは気も利くんだ。だから気にすんな」
親父は多分カマをかけただけだろう。
しかし黒崎の反応で決定打のバレバレになってしまったんだが黒崎を責められない。
ウソのつけない黒崎で、だから俺は黒崎がいいんだ。

妖しい空気ついでに言っておこう。
例のアレがねじこんであるポケットに手を突っ込んでジャケットの裾を揺らしながら「壁が薄いんじゃコレは使えねぇな」。
なるべくあっけらかんと言ったつもりだがなんだかにやけてしまったのでオッサンエロトークみたいな言い方になってしまった。
黒崎はようやく静まった頬をまた赤くして慌てた様子で「こんなとこでいわないで下さいよ」とぽかぽかと俺の肩やら胸とかに拳を当ててきたが
急にピタリと動きが止まった。
そして「さ…猿轡とかしたらマシすかね?」とおおくそマジメな顔で聞いてきたから今度は俺が慌てた。
「だからそんな趣味はねぇ!」


引越し屋が荷物を持ってくる前に部屋を見に上がる。
今回は残念というか階数の割には部屋数の少ないひょろ長いマンションで各階3部屋の造りだったから「606」号室は望めなかった。
あの陰気な管理人に渡された鍵を使って廊下の一番奥の603の部屋に入ると新築みたいな匂いがした。貼りたてのクロスの糊のせいだろう。
ほかは取り立てて前の部屋と変わってる部分はない気がした。
ワンルームのマンションなんざ多分どこも同じだろう。
変わってる部分といえば「ここ、図書館丸見えですね」窓から見える風景くらいだ。
しかしこれはかなり気分を左右する。
図書館の敷地内の桜が眼下に見える。
今回はアタリだな。
まぁあと一週間も咲いちゃいねぇだろうがこれが見れただけでも得した気分になった。

しかし引越し屋がこない。
昼近いと言うのにこれでは昼過ぎから「仕事」に行けねぇじゃねぇか。ヤベぇな。

しかも手持ち豚さんである。

違った。

手持ち無沙汰である。

この豚野郎と叫ぶのが売りの女芸人を思い出しそのせいでまた思考が変な方に向かい出した。

手持ち豚…無沙汰も手伝って妄想はのびのびと躍進する。
つまり猿轡とか。
そしてそれを身に付け(?)のびのびと声を殺して
のびのびとこのポケットの中にあるアレを猿轡で塞いでいないほうの口でくわえ込むかーいい生徒。
いやもうあれは凄かったなぁ。
のびのびとそんな思い出+妄想に浸っていたら
目の前でかしこまってあまりのびのびしてない現実のかーいい生徒が「荷物ていつくるんですか」と心配顔をしていた。

「多分もう来るだろ?午前中に来るとか言ってたし」と携帯の時計を見て気休めみたいに言うが正直心配だ。
実は真の悪徳はクロス業者ではなくこの引越し業者で
俺の家財道具一式はまんまと悪の組織の手に落ち返してほしくば俺と戦えと
きらびやかでゴージャスなラスボスのイデタチの昨日のスタッフが下っ端も倒していない俺の前にしゃしゃり出て高らかに笑う。
無理だ戦えない。
昼から俺仕事なんだよ。
いたしかたない。
ならこのかーいい生徒をいただくとラスボスはなんだかエロい顔になった。
もっと無理だ。
勘弁してくれ。
黒崎渡すくらいなら家財道具なんかくれてやる。
ああそうだとも。
もういいわ家財道具一式なんか。
俺ここで黒崎だけいればもうなんもいらんし。
そうだよ。
俺は惚れてんだ。

がっつり惚れてんだ。

妄想はのびのびと新展開を迎え、
戦えないとか言ってたわりには俺はどこから調達したのか見たものをタチドコロに石に変えてしまうという超危険極まりないものを
危険物取扱の免許もなく振り回してラスボスを固め、
鎖で縛られてる(なんで縛られてんだ?しかも鎖だ。そのうえ猿轡とアレはいうまでもなく装備済みで
          あまつさえ白い肌には縦横無尽に鞭のあとだ。一体いつの間に何があったというのだそこが見たかったというのに)
黒崎を助ける。
助け出したはいいがその黒崎ときた日にはそのメドゥーサの首とやらが生で見たいとダダをこねだした。
なんでも自分でやってみて納得しないと退き下がらない。
しかしこればっかりは石になってから退き下がってもあとの祭だ。

そしてチャイムが鳴った。
妄想があまりにもスペクタクル過ぎて半日くらい経ったのかと錯覚したが携帯の時計を見れば先ほど見た時間から2分と経っていなかった。
凄い長旅をしたような気がした。
妄想の余韻さめやらぬまま玄関に向かいドアを開けると
昨日のスタッフが普通にスタッフのイデタチで道が混んでいて遅れたことを詫びながらすでに段ボールを部屋に雪崩込ませようとしていた。

黒崎が立ち上がって寄って来てそれを手伝おうとする。
スタッフは「今日は助っ人さんですか」と笑い
黒崎は不動産屋の親父の時の二の轍を踏まないようにしているのか今度は無口にペコリと頭だけで挨拶していた。
この挨拶が許されるのは黒崎の年の頃だけだ。

あっという間に部屋は前の606の再現になった。
ただ、窓の風景だけが違う。

家財道具一式を返すかわりに業務完了のサインだけを奪い
負け惜しみのようにありがとうございましたと捨て台詞を吐き退却する悪の結社のラスボスを見送ってから、
やっと家財道具一式の中から灰皿が出てきたのでタバコを出す。

携帯で時間を見ると昼を回っていた。
黒崎に手伝いの礼を言い
「飯食ってから俺学校いくけどお前どうする?」と聞くと
「飯一緒していいですか?食ったら俺も帰ります」と言う。

なんか追い出すみたいな気がして「悪ィな」と言うと「全然」と笑い
「ここ…また来ていいですか?」とちょっと恥ずかしそうに目を伏せて聞いてきた。

「お前がよければいつでも」と言ってからああそうだとポケットを探る。
例のアレが半透明のシャワーキャップにくるまれて出てきた。
黒崎は羞恥プレイを受けたように真っ赤になったから俺はさっさとそれをベッド脇の棚に放り込み
「壁薄いらしいからやっぱ使えねぇだろしな」と言いながらもう一方のポケットを探る。

出てきた。

「ほれ。持っとけ」
黒崎の手を取って握らせる。

黒崎の目ははじめはきょとんとしていたが見る見る細められた。
倖せそうに見えるのは俺の願望も多分に加味されているせいかも知れない。

「友だちとか呼ぶなよ」
「呼びませんって」

黒崎の手の中のスペアキーが春の光を受けてキラキラ光る。なんだか指輪でも贈ったように照れ臭かった。


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