驚かすつもりで先生の家に行ったのに部屋に通されて反対に驚いた。
普段の先生を見ているとどっちかというと片付けや整理整頓には無縁な感じがする。

それは見事に裏切られる。

というか片付けるものがない。

部屋は入るとすぐにキッチンがありその奥に8畳くらいの板張りの洋室がある。
そこにあるのはベッドとテレビとその周辺機器、ベッド横の棚とあと部屋の真ん中に灰皿が載った座卓だけ。
職業を伺わせるような物もない。
びっくりした。
タバコの匂いがなければ本当に全く生活感がない。

「何もねぇだろ?」
何も無さすぎる。
「俺、引越し魔でよ。すぐ飽きて次行くんで繰り返してたら余計なもんなくなっちまった」
「引越し…?」
「20回くらいやってるかな?ここは長いほうだな。GWから居るから。下のゲテもん屋気に入ってるし」

まぁ座れやと言われたけどどこに座っていいか困る。
先生は「あ〜『止まり木』な〜」といってクローゼットを開けて中を物色する。
ちらっと見えたクローゼットの中もそもそも乱雑になる余地がないくらいに物がなかった。
「こんなのしかねぇわ」と先生が出してきたのが毛足の長い車の背もたれカバーみたいなのだった。
「ないよかいいか」
とそれを座卓の近くに敷きそこを示して
「はい、お座りください」
と自分はフローリングに直に座ってしまった。
先生はと聞くと要らねぇと言う。

ムートン?な長座布団?に座りながら我に返る。
ここに来た目的。
「先生、風邪は…?」そう、心配で来たんだ。
「おお。地獄見たけどもういいぜ。月曜から行けるし」
「医者は?」
「ひどかったのが昨日の朝でよ。木曜じゃん。近所の医者どこも開いてねぇし」
「俺んとこ木曜でも午前中は開いてますよ」
「お前ん家どこだっけ?」
「南川瀬」
「遠いわ」
歯を見せて先生が笑う。
風呂に入ってたと言ってた通り髪が生乾きで額を隠している。
服装も普段見てるネクタイじゃなくて白とグレーの混ざったベロアっぽいパーカに
幅広の黒のジャージときてるからこれはもう完全に学生で通る。

「完璧自力で治したぜ」
「ちゃんと食べてんですか?」
「実は食ってねぇ。あ、なんか食いに行くから付き合えや」
「キャビア?」
「別んとこでもいいぜ」
「外、寒いですよ。先生風呂入ったんならもう出前とかのほうが。俺が何か買って来てもいいし」
「あ〜そっか。食ってから風呂したほうが良かったな。
けどもう色々めっちゃ臭くてよ。
火曜も帰ってそのまま寝たからええと、か、すい、もく…3日入ってねぇし。頭痒いし」
「熱だしたら余計に」

そこで先生は前髪をかきあげた。額が見えていつも見ている先生の顔になる。
だけどすぐにばらばらと髪が落ちてきてまた額を隠す。

「そうそう。で、風呂入ってたらお前メール来ててびっくりしたぜ。電話もくれただろ?」
それから前屈みになりテーブルの灰皿を引き寄せる。
「すみません。いきなり来て」
「ドッキリの積もりなら十分びっくりしたぜ」
そしてタバコをくわえて火を付けた。

びっくりして…そしてどう思ったんだろう?

「迷惑…でしたか?急に押し掛けて」
「メーワクだったらそのままシカトしてたよ。あ。よし、黒崎お前ピザ食うか?」
「あ…?はい」

少なくとも迷惑とは思われてない。
ほっとした。
先生は立ち上がって台所に行きキッチンの引き出しからピザのデリバリーのチラシを出してきた。
タバコをくわえたままで煙そうに喋るのが渋いなとかちょっと思った。
手にもって眺めているのがピザのチラシじゃなくて英字新聞とかならいうことない。
ただいかんせんピザのチラシだ。
「この四つ味があるやつ小さいのがねぇんだよ。でも一人でLサイズ食えねぇだろ?
こゆ時でないとLとか頼まねぇからよ。これでいいか?」
「はい」
「あと、あー俺野菜食いてぇ。ビタミンが抜け切ってるしな」
煙そうな渋い顔で一人でぶつぶついいながら居酒屋の時と同じようにサクサクと注文を決めていく。
携帯を出してきてプッシュする。
電話の向こうの店員に先生が注文を伝えている間、部屋の中を改めて見回してみた。
本当に見事になにもない。
部屋を見ればある程度主が分かるというけどこの部屋でわかる事といえば主はスモーカーですくらいしかない。
殺風景を通り越して殺伐としている。

「なんか珍しいもんでもあんのか」と言われて向き直る。
殺伐とした部屋の賑やかな主は「30分くらいで来るぜ」と言いながらタバコの火を消し
また立ち上がってチラシを仕舞いに台所に向かう。
そして冷蔵庫を開けて「茶?ポカリ?酒?」と聞いてきた。
「ポカリ」と答えると
「焼酎のポカリ割りするか?美味いぞ」と笑う。
この人はよほど未成年に酒を飲ませたいらしい。
「まぁ、すきっ腹で飲むのはまじぃからまた後でな」
とポカリのボトルと紙コップを二つとそれからなぜか割り箸を二膳持って来た。
「洗いもんしねーからいつもこれ」と紙コップにポカリを注ぐ。
差し向かいで飲みながら先生が休んで居る間の自習の様子なんか「報告」しながら待っていると程なくしてピザが到着した。


「雨降ってるみたいだぞ」と先生がピザの箱を抱えながら戻ってきた。
「配達のやつの服びしょびしょだった」
箱をテーブルに置きベランダに近付く。サッシを開けるとさあっと湿った冷たい風が入ってきた。
「ほんとだな」窓を閉めてテーブルに戻る。
「黒崎傘持ってんのか?」
「いえ」
降ってると認識したとたんに雨の音が大きく聞こえるから不思議だ。
今まで無音だったBGMがショパンの調べになる。
「すぐ止みそうですか?」
「さあぁ?俺お天気の神様じゃねぇし。まぁ、傘…あるわ。予備が」

帰らなきゃいけないんだろうか?
そぼ降る雨の夜道、ここから自宅までの帰路を思うと憂鬱になった。

先生がピザの蓋を開ける。
出てきたピザを見てギョッとした。
一面に黒い何かが散らばっている。
「何ですか?これ」
「ブラックオリーブ♪別でトッピングしたぜ。好きなんだこの黒タイヤ」
好きといってもこれはやり過ぎだろう。
びっしりでほかの具材を駆逐している。
ピザ屋も首を傾げながら焼いたかも知れない。
「三枚分やったからな。嫌いか?」
そもそも好き嫌いが生じる具材じゃないと思う。
なんであえてこんな地味なものにスポットを当てて好物にしたのだろう。
「大丈夫です」
「嫌いならほじってこっちに回せや」
余程好きらしい。
ほじって選り分けたピザの上の具なんか普通不気味だ。
ゲテもの屋を贔屓にすることといい、先生の食の嗜好はマニアックな部分がかなりあるとみた。

切れ目に従ってピザを離すと案の定黒タイヤはぽろぽろと転がり落ちる。
そうすると先生はさっき紙コップと一緒に持ってきた用途不明の割り箸を出して口で割り
黒タイヤを器用に摘みあげて切り離したピザのチーズの中に無理矢理押し込んでいく。
手慣れている。
ハンパない。
もしかしてピザ屋は先生のことを「いつものオリーブの客」と認識していて
今日も「いつものやつだな」と自信まんまんで焼いたのかも知れない。
もっと言うともしかして注文の時に客が先生だとわかった時点で
「いつも通りですね」なんて言ったかも知れない。
耳をそばだてて聞いておけば良かった。

「黒崎」
ふいに呼ばれて我に返る。
「はい?」
「お前さぁ、今日彼氏は?」
いきなり話を振られてぎょっとした。

「お前今日6時限目フケたろ?」
「あ…わかります?」
「わからいでか。メールの時間が早すぎるんだよ。授業終わってからこっちに来たにしては」
先生は箸を持ったまま左手にピザを持ち、
せっかくさっき埋め込んだ黒タイヤをわざわざほじって口に運んでいる。
なにをどうしたいんだろう?
それならさっきタイヤをわざわざチーズの中に深く押し込まなくてもよさそうなものだ。
全く謎の多い人だ。
「金曜だろ今日」
ほじりながら続ける。
ほじるのが楽しいのかも知れない。
チーズの海のトレジャーハンターだ。
味云々よりもほじりたいのかも知れない。
なら少しは気持ちは分かる。
同じように箸を割り先生と同じようにほじって口に運ぶ。
単品で味わう「お宝」はスカみたいだった。
やっぱり味云々よりもほじるのが楽しいんだと納得しかかった時「やっぱ美味いな」とボソッと声がした。
オリーブも幸せだろう。
ポパイでもここまでオリーブの事が好きだろうか。


「金曜はお前、いっつも彼氏と帰るじゃん」
話は続いている。
「よく…見てますね」
確かに金曜は恋次と帰る。
週末だからという訳でもなくて商店街にたい焼きのテキ屋が金曜だけ店を出すだけの話だ。
まぁ勿論たい焼きだけ買いに二人でつるんでいく訳じゃなくて
他にゲーセンとかカラオケとか映画とか行ったりもしている。

そしてその後が…あるときとないときがあるんだけど。

「ったりめーだろが」
先生は吐き捨てるように言うと箸を置いてようやくピザにかじりついた。
見ればピザの上の黒タイヤはすっかりなくなっている。
もうこの珍奇なテーブルマナーにコメントする術がない。

「毎週毎週指くわえて見送ってますぜ」
知らなかった。
というかやっぱり見られたくないからサリゲに職員室の前は迂回して帰ってたんだけど。
そう言うと「違う違う。教室」と咀嚼の間隙をつくようにブッキラな答えが返ってくる。
「教室?」
「6限目あと。『礼』のあとお前ソッコーあいつの席に行くだろ?」
「え?」
そうだったか?気がつかなかった。
「廊下から丸見え。ちっとは気ィ遣え」
見てるんだ。
「すみません」
いや、見て『くれて』るんだ。
「あと、あからさまに目そらすのやめてくれや。気持ちは分かるがあの顔の背けかたはスッゲ傷つく」
これも意識してなかった。
「すみません」
謝ってばかりだ。
「まぁ、チッサイことばっかだけどな」
言いながら先生はサイドメニューのサラダをモシャモシャやっている。
野菜の食べ方は至って普通だ。
「そういうチッサイことで気分よくなったり悪くなったりしてんだ。大っぴらに会えないからな」
それだったらお互い様だと思ったけど、
いつも見ててくれてたという事実への嬉しさが勝った。
「今日来てくれたしな」

迷惑じゃなくて良かった。

「彼氏ブッチしてくれたのか?それとも彼氏休みか?」
そんな意地の悪い聞き方しないで欲しい。

「ブッチしました」

―会いたかったから。

「風邪様様だな。これからお前に会いたくなったら学校休もっか」
悪戯っ子のような笑い。

「あえて金曜日によ」

―ほんとに貴方って人は、

「まじ限界きたらそうしようか」

掴み所がないくせにそうやって

「でも、それでお前来てくんなかったらドツボだな」

子どもみたいな

「それなら学校行ってお前眺めてたほうがなんぼかマシだな」

時々それでいて核心めいたことを言うから

「賭けだなこりゃ」

だから、それが嬉しくて

「どおしよ黒崎?」



貴方が好きになったんだ。




知りませんよ先生が決めることですと苦笑すると
冷てぇなぁと頭をがくりとさげる。




     *     *     *



箱の中のピザはあらかたなくなった。
先生は「やっぱ二人でもLは厳しいな」とか言っている。
というかサイドメニューにサラダはいいとしてチキンだのポテトだの頼みすぎだと思う。
イスラム教にはラマダンという断食月があってその断食明けの最初の食事をブレックファーストというらしい。
先生は風邪でいわば強制ラマダンをしていた訳で
そのブレックファーストにいきなりピザなんて濃いものを食べるってのもそもそも間違ってるなと思ったが後の祭だった。
早く気付いてあげれば良かった。
「うわー。しばらくピザはもういいぜ」といいながらもまだ食べている。
どんな胃腸をしているんだろう?
こっちもすっかり満腹していたので見るのも気持ちが悪い。
それでも先生はついに最後のひときれを平らげて「よし、完食!」とガッツポーズを決め
紙コップにポカリをなみなみと注いでぐびぐびやっている。
そういえば食事中には何も飲むなとだいぶ前にTVでやっていた。
先生も同じ番組を見たのかも知れないとふっと思った。

「こりゃ酒入る余地ねぇぞ」
みぞおちを押さえながらフローリングに仰向けにゴロリと横たわる。
「先生何か下に敷かないと」
「要らねって」
自分の腕を頭に回して枕にしてあ〜牛になる牛になると間伸びした声を出して弛緩しきっている。
髪がすっかり乾いて先生が動くたびにさらさらと流れるのが見えた。
素髪というやつだ。
「先生髪下ろしたほうがいいのに」
「前にも言われたな」

誰に言われたんだろう?
他にこんな風に先生のOFFを知ってる誰かが…そりゃ居るよな。
先生は大人だもん。今まで何人かと深い仲になってないほうがおかしい。
ゲテもの屋で先生が言ってた「テメー」が思い出される。
誰のことだろう。

「黒崎」ふいに呼ばれて思考は霧散する。
見ると先生は仰向けで右手をあげ手招きをしている。

「その、下に敷いてるの持って来な」

とたんにビクンと脈がはねあがった気がした。
さっと期待のようなものが横切る。
けど反対になにをしにここに来たんだというブレーキがはねあがった脈を押さえにかかる。
どうしよう。
待ってましたみたいにいそいそと行ってああやっぱりとか思われたら恥ずかしい。
かといって意地張って躊躇してタイミング外しても洒落にならない。

  ―ここに来た意味ねぇじゃん!―

ていうか、今そっち行って先生が上に乗っかってきたら口からピザが出る。
間違いなく出る。
どうしたものだろう。

多分逡巡は顔に出てるはずで先生はニヤニヤしながら見ている。
「バカ、なんもしねぇよ。先生はちょっとお前をナデナデしたいだけです」
何もしないって…?
「病み上がりでそんなガッツないわ」
先生、ここまで来てそれは…。
先生はさらにニヤニヤしている。
「ナデナデはヤか」
ったり前じゃん先生。
ナデナデだけなんか…
バカにしてる。
ガキ扱い丸出しだ。
「嫌ですかぁ…あ〜。んじゃ黒崎、枕取ってくれや」
今度はベッドを指さす。
そのあまりの切り替えの早さがこれまたカチンときた。
立ち上がってムンズと枕を掴む。
寝転がっている先生の傍に行きボスンと顔の上に落下させてやった。
「サンキュサンキュ」
抗議を込めた積もりだったけどこの鈍感脳天気には通じてない。
そのまま枕を頭の下に潜りこませて「ぶへぇ」とか言っている。
来てくれたとか喜んでるくせにその態度ってなんだよ。
来てやったんだから、授業も映画も恋人もキャンセルして来てやったんだから…。
「あ〜風呂入ったら腹こなれるかな〜でもさっき入ったしな。また入るの面倒っちいよな黒崎」
知るかよ!勝手に入って人を待たせてたくせに。
また入るのかよ。
しずかチャンか?
もぉムカついた。
帰るぞ、
帰ってやるし。

「…ていうか」
なんだよ。
ていうか、何だよ。


「一緒に入ろぉか」


音を立てて身体中の血がいっぺんに逆流したような気がした。
カァ〜っと顔が赤くなる。
やばい。先生にまるわかりだ。
先生はねそべった下からねめあげるようにこの火照った顔を見ている。
日本人離れした色の薄い瞳。
そういえばクラスの誰かが先生はハーフだとかなんとか言ってた。
そうしたら恋次がそりゃ当たってるぜ。だって親父が宇宙人だからなとか言って
それがあまりにハマってたから皆がどっとウケて…。

そのエイリアン(異邦人)の血を濃く受け継いでいるのかも知れない薄い色の目が細められる。
そしてもう一度右手が呼ぶ。
今度は身体が素直に反応した。
吸い寄せられるように先生の横に座る。
膝を崩して先生の右腕にもたれかかる。
簡単なこと。
なにを躊躇していたんだろう。
先生の右手が背中を撫でる。ナデナデなんてもんじゃない。
触れられたそこから制服を通して先生の指を手のひらを感じる。
先生の左手は火照った頬をなぞる。
なぞる指先は唇も捉える。
どちらからともなく唇を合わせた。
絡む舌が甘い気がするのはさっき先生がぐびぐびやってたポカリの味かも知れない。
長いことそうやったあと先生は「やっと捕まえた」と囁いた。
先生がモタモタしてるから捕まりにくかったんだと言う非難もこめて
「ナデナデだけじゃなかったんですか」と言うと
「昨日のことは忘れたよ」
と気障ったらしい声音を作って昔の映画のセリフを吐く。
「さっき言ってましたよ」と唇を尖らせたら
「そうそうそこだ」と真面目な顔になり
そして何を言い出すのかと思いきやあの映画のあのヤローは認知症に違いないとか言い出してきた。
ムードもへったくれもない。
だからといってピザで気持ちが悪くなっているから今盛り上がるには少し勿体無いような気がした。
飛び込んだ先生の腕の中は心地良かった。
先生の匂いがする。
このままずっとくるまれていたかった。
先生も同じように思ったみたいで背中に回された手はそのまま大人しくあやすようにトントンと心地いいリズムだけを打つ。



雨の音がする。


ふと雨音に彩られた静寂が破られた。唐突に始まる曲。

「あ?黒崎お前のじゃねの?」
カバンの中から携帯が鳴る。
先生から身体を離しカバンを引き寄せる。
やかましく歌う携帯を取り出すと音が大きくなった。
発信者を見てギクリとした。

出たく…ない。

思わず先生を見る。
先生は鼻白んだ様子で「出てやれ」と言ってから立ち上がる。
そして足早に脇をすり抜けてキッチンに向かって行った。
背後を気にしながら通話ボタンを押す指の感覚がない。

「…あ、恋次」
『おぅ、大丈夫か?』
電話の向こうの恋人の声は相変わらずのデカさで耳に電話を押し付けなくてもハンドフリーで話ができそうだ。
普段なら助かるときもあるが今は声を落としてくれないかと思う。
「え?」
『お前、フケたの具合悪かったんじゃねの?』
「違うよ別件で」
『`お前に別件などない!"』
「えっ?」
叱咤の様な口調に脇汗がどっと出る。
CMのセリフの真似だと気付いて一気に汗が冷えた。
『なんてな。じゃ今どこだ?』
だが手が汗ばみだす。
「と、友だちン`家"」
『誰だよ』
次は震えだしてきた。
「…お前、知んねーよ。オナチューのやつだし今違うガッコだし」
『ふぅん』
「病気してて…」
『見舞い?』
だめだ。これ以上話すと声が震えてるのがバレる。
「そ、見舞い。今病院だから…携帯まずい」
『あ、悪い。また電話するぜ』
「うん」

恋次がまだ何か言っていたがパツンと切る。
待ち受け画面の時計を見てとっさの嘘を後悔した。
病院の面会時間なんかとうに過ぎている。
気付くだろうか。
それ以前にこの上擦った声で違和感は与えているはずだ。

隠し事の上に嘘をついてしまった。
恋次の笑顔がよぎる。
あんないいヤツをあんな優しい恋人を裏切っている。
自分の身勝手さに涙が出てきた。
唇を噛む。

「帰るか?」と声が降ってきた。
振り仰げば声の主はキッチンによりかかって腕を組んでいる。
「帰った方がいいんじゃねぇか。雨ひでぇからタクシー呼んでやるよ」
そしてこの人も優しい。
なんで二人ともこんな優しいんだ?

この優しさに嘘で答えた。

この優しさに打算で答えた。

この優しさに、
見合う人間じゃないくせに。

涙がぼろぼろ出てきた。出すつもりもないのに声が出る。
「泣くな。俺はいいから」
先生はしゃがみこんで顔を覗き込んでくる。
「見舞いに来ただけだろ?あってるじゃん。このまま帰りゃそれでいいじゃねぇか」
かぶりを振る。
「違います。違います」
「何も違ってねぇよ。何も間違ってねって。お前、バレてないんだろ?前やったの」
頷く。
「なら、なかったことにしようや。お前が泣くの見たくねぇよ」
「先生が好きれす」
ろれつが回らない。
「わかってる。それで十分だから」
また頭をぶんぶん振った。
「わかってない」と言ったけど何をわかってないのかわかってない。

「…俺が二人いたら」
「…バカか」
「だって…」
「たった一人しか居ない黒崎に惚れたんだ。
そんな俺の分け前ですみたいに増えられてもそれはもうお前じゃねぇよ」
「…」

先生は着ているパーカの袖で涙を拭ってくれたけど
ベロアっぽい生地だから涙は吸い込まれずただ頬に広がってるだけの感じがする。
頬が冷たい。
「彼氏のこととかも全部ひっくるめていっぱい色々抱えてるお前が好きなんだよ。
わかるか?
人の都合で自分の値打ち下げるような事言うな。
黒崎ダッシュとか黒崎2号とかそんな黒崎いらねぇよ」
「…先生」
「そりゃ彼氏と別れて俺だけにしてくれたら一番だけどな。
それは俺が決める事じゃねぇだろが。お前が決めるんだ」
「俺が…」
「すぐに決めろとは言わねぇけどな。俺は待ってっから」
「…」
「だから今日はとりあえず帰れ。な」
■■■

沢山の矛盾。
答えの出ることのない難しい計算。
嘘と欺瞞。

「恋次に嘘つきました」
「嘘ついてねぇって。言ってねーことがあるだけだって」
「俺ウソツキなんれす」
「俺にはついてねぇじゃん」
そう言って先生は抱きしめてくれた。
先生の素髪が鼻先をくすぐる。
タバコとシャンプーか何かの匂いが混ざりあって先生の匂いがした。
不思議とさっきまで混乱しきっていた頭の中がしずかになる。
勿論矛盾とかはまだそのままだけど。
こうやって抱かれていたらいずれそんな矛盾も解決していくような安堵感。
この腕に抱かれていればすべての悩みとか悲しいこととかなくなってしまうような気がする。

お袋が死んでから泣いたことがなかった。
ずっと。
ずっとずっとずっとだ。

それが先生の前で泣いた―あれが始まりだった。
外に出ることもなく澱のように溜まった涙は先生によって全部出てしまった。

先生は泣くの見たくないと言うけれど、

先生の前なら泣けるんだ。
先生の前なら全部出せるんだ。
先生の前ならただの16のガキに戻れるんだ。
世界にひとつだけの場所がここだ。

なにも整理がつかないままぶちまけて
それで先生に勝手に好きなとこだけ選んで持ってってくださいみたいに告った。
先生はそれを丸ごと引き受けてくれたんだ。

「先生」
「帰るか?」
「…帰りません」

先生の背中に手をまわす。

「…それで…いいのか?」
先生が喋ると背中の筋肉がわずかに振動する。

「先生に…会いに…今日は…嘘つきました」
まるで先生のせいで嘘ついたみたいなずるい言い方。
だけどこんな風にしか言えなくて。

先生が悪いんじゃない。

「俺が決めたことです」
精一杯の弁解みたいに囁く。

先生の腕に力が入る。
「俺も、嘘ついた」
「?」
さらに力が入る。
かき抱かれる。
左肩が重いのは先生の頭が預けられてるせいだ。



「本当は帰す気なんか…サラッサラなかったんだよ」





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