黒蝶の夢
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真紅の月が出ていた。
紅い姿は凶々しいと言うよりは、何か人の計り知れぬ秘密を
抱えているように、夜に端然と佇んでいた。
綺麗な真円からの光が、冷えた闇を紅く照らし出す。
 
その月明かりを浴びて、一人の男が窓に座って闇に目を
凝らしていた。
大きく丸く刳り貫かれた窓の下は、断崖絶壁。
望の明かりですら届かない底なしの闇を、しかし男は怖れる風もなく
平然と窓に躯を預けていた。
 
鮮やかに照り映える、真紅の月にも負けぬ色の長い髪を高く
二つに結わえ、闇と同じ色の襟の高い長衣に身を包んでいる。
闇色の衣の中心に、少し幅広の模様が襟下から裾まで続いていて、
髪に合わせたのかその色も紅い。
闇を鋭く見据える瞳も紅。
眉から額に向かって墨を入れ、襟から僅かに覗く首筋にも
墨が入っている。
長身で逞しい躯付きは一見近寄り難いが、不思議と怖さよりは
人を惹き付ける魅力に溢れていた。
 何かを捜すように闇を見つめていた男の瞳が、不意にすっと
細められた。
視線の先。何も無い闇の中にじわりと滲み出るように、一つの
小さな影が紅い月を横切った。
―黒揚羽蝶
ひらひらと薄い羽は闇から滴った雫のように艶めいた色を見せ、
斑紋はいっそその色を引き立てるように、濃く鮮やかな橙色。
闇の中を軽やかに羽ばたきながら、すうっと男が座る窓に
近づいて来た。
 
闇夜に蝶が飛ぶはずもなく、黒揚羽にしては橙色の斑紋という
奇しいそれを、男は訝しむふうもなく気遣う様な瞳で追っていた。
やがて近付いた黒揚羽に男は優しく微笑むと、無骨ではあるが
長い指をそっと差し出した。
ふるっと翅を震わせて、黒揚羽が止まる。
何度か翅をゆっくり開け閉めし、暫くは指に休む様に止まって
いたが、またふわりと翅を広げ部屋の中に入っていった。
 
優しく見守る男の視線の先、空中で羽ばたいていた黒揚羽の
姿が淡く光りだした。
翅の先からゆっくりと輪郭がぼやけていく。
明滅する橙色の光の中、溶ける様に黒揚羽の姿が消えた。
 
一旦小さくなった光は今度は徐々に大きくなり、先程とは逆に
先端からゆっくりと人の輪郭を取り出した。
長い指から腕、綺麗に整った足先からすんなりとした脚へ。
引き締まった腰はなめらかに鍛えられた胸へと続き、
くっきりと浮き出た鎖骨へと繋がる。
 
少年と青年のあわいのまだどこか細さの残る肢体に、
光りと同じ橙色の髪を持った少し大人びた整った顔。
淡く部屋を照らしていた光りが収まり、すっと少年が
顔を上げた。
ゆっくりと上げられた瞼から現れた強い意志と優しさに煌めく
琥珀の瞳が、眼前で己を見つめる男を映し出す。
愛しげな眼差しを向ける男に、ふうわりと微笑んだ少年の唇が
 
―恋次
 
とその名を呼んだ。


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