(参)
時計をみる。昼をかなりまわっていたがあまり腹が減っていない。
色気が満たされると次に必ず食い気が来るのが俺ってやつだがなんだか今日は食い気より悔い気だ。

とりあえず黒崎のそこを拭いてやろうとテーブルにあるティッシュの箱を寄せる。
二三枚引っ張り出すと黒崎は察して「あっ、自分でします」と言ったが「んなもん見てるほうが恥ずいんだよ」と膝を立てさせ拭う。
黒崎は恥ずかしそうに身体を縮めて「すみません」と小さく呟いた。

湿ったティッシュを丸めながら
「お前、彼氏にバレバレだぞこれ」と俺が言うと「そうですね」とこれまた小さな声が返ってきた。
バレて欲しくないような欲しいような。
いっそ別れてくれりゃあバレる心配もないのに。
「バレても先生だって言いません」
ああそりゃ助かる…って違うだろ?
「お前が怒られるだろ?」
「怒られる…でしょうね」
「ヤベぇじゃん」
「先生が心配すること…」
「するよ!お前馬鹿か?それでもし別れるとかなったら」

なって欲しいが。

らしくもない心配をするのは…呵られて困ってる黒崎はやはり俺の望む黒崎じゃないからだと思う。
自分が困ることしちゃったくせに。
「そうなったらそうなった時の事です。それくらい覚悟してます。覚悟して先生に告ったから」
たいしたタマだ。
流されて抱いた自分のほうがよっぽど女々しい。
その上途中から欲出して自爆だ。
「でもよ、好きなんだろ?彼氏」
「はい」
即答だ。
これがムカつく。
さっきの俺のテクを体感しといて普通はこうは言えない(はずだ)。
なんていうか…

惨敗だ。
彼氏にじゃない。黒崎にだ。

立ち上がって丸めたティッシュをクズカゴに放り込みそれから散らばった衣服を拾って黒崎の方に放る。
俺もズボンは履いたがシャツのボタンがやっぱり上手く留められない。
苛苛して二つほど留めた時点で諦めて後回しにした。
それから流しに近づいて蛇口を捻って黒崎の身体を撫で回した手を洗う。
洗っても洗っても未練たらしく感触が残るのが凹ませてくれる。
次に冷蔵庫を開け、今度はちゃんと缶の烏龍茶を出して黒崎の方に一本アンダーで投げる。
ボタンを留めてる最中だったが黒崎は片手で上手に受けた。

黒崎が缶を片手に立ち上がる。
ソファに近づいて二つ持ってきた袋の残り一つの中に手をつっこむ。
カサカサという音の中から「先生食べます?」と二つ箱を出してきた。
「何だ?」
「これはコンビニですけど」
「お前買ってきたのか?」
「はい」「俺のも?」
「はい」
「貢ぐじゃねぇか」
正直腹は減ってなかったがわざわざ買ってきたその気持ちが嬉しくて「ありがとさん」と言って受け取る。
普段はアポなしのプレゼント(?)は受け取らないんだが色色俺の中で調子が狂っている。

「…で、なんでちらし寿司?」
「いや、だから先生いなかったら持って帰るから傷みにくそうなの…」
「なんの祝いかと思ったぜ」
「それは赤飯でしょ先生」
「ちらし寿司も祝いモンだよ…女子のだけど」
そう言いつつ赤飯も女子の、しょ…じょそうしつ…じゃないショチョーだ、
そうそうショチョーの祝いだったはずだと思い出した。

処女喪失で赤飯炊いて祝ってどうすんだ?
相手の野郎にもふるまわれるのか赤飯。
ちなみに俺は小豆も嫌いだからそんな祝いの席は真っ平ご免だ。

「あ〜そういや妹がひな祭りの時にやたら寿司寿司言ってるな〜テンヤもん親父食わないんで妹が作るから」
「妹居んのか?」
「はい。二卵性の双子なんですよ」
「へぇ。今度どっちか紹介してくれや」
「五年生ですけど?」
「じゃああと5年したらな。女だと10年経ったあたりが一番いいけど虫つくしな。見張るわ」
一瞬真剣に指折って計算していた。
何の話してんだ。
黒崎の妹紹介して貰ってだからそれでどうだと言うんだ。
でもって色色凄い転び方して黒崎の妹とめでたくゴールインなんて運びになった暁にはどうなるんだ?
黒崎を「義兄さん」と呼ぶんだぞ。
てか、新郎(俺)と新婦の兄が教師生徒の間柄だったとかいうのはまだアリだが
体の関係がありましたってのはどうなんですか?
つか、黒崎の妹って可愛いのか?
まずそれが全ての前提じゃないか?
いや黒崎の妹だから可愛いはずだ。
だからって兄がダメだから妹に乗り換える俺ってダメじゃんかよ。
高砂の間で燕尾着て照れ笑いしてる自分が浮かぶ。
バカタレ丸出しだ。お前はそこで勝手に祝われてろ。
俺は俺でなんとかするから。
って、なんとかなるのか?

ちらし寿司の容器をくるんでいるラップを外して透明の蓋を取る。
「今度なんか驕らねぇとな」
「気にしないでください。俺が勝手に買って来ただけだし」
黒崎も蓋を取る。
「アイスも買って来ただろ?」
「でも先生食べられなかったし」
「あ〜悪かった」
「俺も先生の好き嫌い聞いとけば良かったんです」

俺たちはソファではなくカーペットに直に座って寿司を食っている。
変だ。
思っきし変だ。
しかも窓はカーテンで閉めきられている。
カーテンの向こうの空が気になった。
黒崎は俺がカーテンに目を向けているのに気がついたらしい。
「開けますか」と聞いてきた。「いいよ。眩しいし」

開けたら最後、窓の向こうの高い空に逃げてしまいそうな気がするから。失いたくないものが。
「先生もなんですか?」
「何?」
「瞳の色が薄いと余計眩しいそうですよ。まぁこういうのって人と自分がどう違うかとか比べようがないけど」
確かに黒崎の瞳の色は薄い。俺もかなり薄いんだが今は違うって。
俺の眩しいはアレだって。『太陽が黄色い』って意味の眩しいだから…。
思考がそっちに傾いて洗い流し切れない手の記憶がふいに鮮明になる。
「黒崎」
「…はい?」
「お前、後悔してねぇか?」
「…するくらいなら」
「正直に言えや」
「先生」
「…俺はな、ぶっちゃけ後悔してるんだ」

空いてない腹に寿司の甘さが堪(こた)える。
「…すみません」
「なんでそこで謝るよ?」
「…勝手に押し掛けたの俺だし」
「それは関係ねぇよ。俺の問題なんだよ。あのな、…」
言いかけてやめた。
黒崎に言っても黒崎が困るだけで何もならない気がした。
なら後悔してるなんてことも言わなきゃ良かったんだ。
「先生…」
黒崎が食い終わった寿司の容器に割り箸を放り込み蓋をしながら言った。
俺はまだ半分くらい残っている。
「もし、俺が反対の立場だったらやっぱり俺も後悔してると思います」
次に烏龍茶の缶を開ける。
食事中には何も飲まないほうがいいとなんかこの間のTVでやっていた。
黒崎も同じ番組を見たのだろうか?
「さっき先生が俺の妹紹介してくれって言ったとき冗談てわかってても実はムカついてましたから」
高砂の間でにやけている新郎(俺)が新婦の兄に殴られるの図が頭をよぎる。
周囲は愛する妹を自分の元担任に奪われる兄のなんともやるせない複雑な心理をハラハラしながらも美しい話だと微笑ましく見ているが
当人たちは違うレベルでやっている。
大変そうだ。
だからやめとけって言ったのに(言ってないけど)。

「だからそういう意味では…俺も後悔してます」
頭の中の披露宴はたけなわになり黒崎のジャーマンスープレックスが炸裂している。
「でも、先生には迷惑かけないつもりです」
今の俺はそれで良いが妄想の中の俺は只今大迷惑だ。
よしんば俺と黒崎、上手くいっても俺はきっと尻に敷かれるんだろうなとぼんやり思った。
「そォか」
沈黙になった。

寿司が片付かない。上に乗ってるデンブはあらかたなくなったが
椎茸の甘煮がゲロ甘でなんとか烏龍茶で流しこんでいる。
番組ではこの食い方が一番身体に悪いから、だから食事中に何も飲むなと教唆していた。

……余計なお世話だ。
そんな事を聞いてしまったからこうやって気にしながら飯を食うハメになる。
でも今までもこんな食い方は何百何千とやってきたはずだ。
だが俺は朝が弱いだけであとは至って健康で多分死んだあとも健康でいられる自信はある。
しかしこんな話を聞いてしまった以上気になる。
身体の変調は多少は誰しもある事だが
そういう些細な体調の『ゆらぎ』もあの時酒で餡子をかっこんだせいだとか後悔の元になってしまう。
もし食い物を水分でかっこむことが健康を著しく損なわせるのなら
ぶぶ漬けしか食わない京都の人間は虚弱短命の短小で早漏な奴ばかりになってしまうが実際はそうじゃないだろう。
「そんなことしたら身体に悪いよ」と言われて気にしながら毎日を過ごし、
結局守れもしない禁忌を破っては「あぁこりゃダメだ」とメソメソクヨクヨすることのほうが健康を左右してるんじゃねぇか?
それとだ。その番組でよくやる
『見ている間に画像が有り得なく変化するその変化を探せ』
とか言うアレは司会者が「ほらっほらっ変わってる変わってる」と優越感たっぷりにやかましく騒ぐので画像に集中できねぇ。
あの司会、降ろせ!あいつのせいでアホだかアハハだかの境地に至れない視聴者は多いと思う。

……。

…俺は…

黒崎と何の話をしてたんだっけ?



「でも…」
黒崎が口を開く。
何の話題だったか思い出しかねている俺を別の理由で黙っていると思ってるんだろう。
「これだけは聞いて欲しいです」
目を伏せて斜め横を向いている。
前にもこの場面を見たことがある。

既視感だ。
いや、見てる。

「なんてのかな…。火遊びとかじゃないです」

錯覚だ。

なのに黒崎が次に言うことがわかってしまった。
黒崎は次にこう言うんだ。


「先生だから」


記憶の黒崎と現実の黒崎がぴたりと重なる。

それはほんのささやかな望みが本当にささやかに叶った瞬間だったのかも知れない。

このささやかさを「これだけ」と言うが
続きに「しか」がつくか「でも」がつくかで満足の度合は違う。

おそらく今の俺は…。

寿司がやっとあと一口ってとこまで片付いた。
口の中が甘甘だ。
烏龍茶を飲んで甘さを殺す。


「ありがとな」

俺は後者を選んだ。

「俺のほうこそ、ありがとうございます」

黒崎はどうなんだろう?
訊きたかったが俺はもうカーテンを開けられないくらいに臆病になっていたから、だからよした。

「帰るか?」
「はい。…ええと」
「何だ?」
「また、来ていいですか?」
少し照れているように見えた。

「……」
「ダメっすよね」
肩をそびやかす。
夏休みの初日、教室の前で黒崎を見つけた時のことを思い出した。しかし今のほうが可愛い。

「3日くらい休みでいねーかも知んねぇ」
やっぱ休み取ろう。まぁ家で寝てるだけだろうが。
「じゃ、電話かメールしてから来ます」
「って俺の連絡先知ってんのかよ」
「知りません。だから」
上目遣い。なんのおねだりだ?
「……」
まじまじとその可愛い顔を鑑賞してやった。
「あ。無理…ですか?」
「お前、めっちゃくっちゃ厚かましいなァ」

こういうやつなんだろう。黒崎ってやつは。
遠慮してる風に見えてその実なかなか情熱家で。
欲しいものは欲しいと言い切るし、かなりのヤキモチ焼きだ。
ずばり言おう。
じゃじゃ馬だ。
「ク」のつく某国産車だ。
深窓の令嬢な躰にとんでもないエンジンが搭載されている。
赤い髪のアイツに少し(いや、かなり)同情した。
こいつの手綱をさばくのはかなり大変そうだ。

尻ポケットから携帯を出しプロフの画面にして渡す。
「朝イチん時はメールな。めちゃくちゃ機嫌悪ぃから」
「はい」
黒崎は自分のと俺の携帯画面を交互に見ながらボタンを操作している。
「一回試しに送信しますね」と黒崎が操作を続けてるうちに俺の携帯が鳴った。
「何か送ったのか?」
「俺のケー番」
黒崎から携帯を受け取って受信画面にする。
確かにメールが来ていて送信者の欄に見慣れない文字がちまちま並んでいる。
黒崎のアドレスか。サブジェクトは空欄で本文を開くと11桁の数字。
「生徒と連絡先交換するとはなァ」
「今までになかったんですか?」
「ねぇよ」と言うとにっこり黒崎が笑う。
やっぱコイツすげぇヤキモチ焼きだ。
「俺からは連絡しねーぞ」
それくらいのプライドは守らせてくれ。

「あぁ、でも寿司とアイスの礼しねぇと」
「驕ってくれるんですか?」
「たかるなよ。高い店ナシな」
たかりませんってと黒崎がまるで縁日の境内に連れて行って貰える約束を取り付けた子どものように無邪気に笑った。

「じゃその時は」黒崎はポケットから俺のネクタイを出してきた。
いつの間に隠してやがった?
それを俺の首にかけて
「髪下ろしてきてください」
「は?」
そういえば今も前髪が降りている。
咄嗟にかきあげると「そしたら一緒に歩いててもきっと先生と生徒には見えないと思います」つまりガキに見えるって事か。
「仕事帰りに行くのになんで」と面倒くさそうに言ってやると「え?晩ご飯?」と違う所に食い付いてきた。
「俺仕事だから夕方か夜しかいけねぇぞ」と言うとじーっと俺を見ている。
「心配すんな。変なとこ連れてかねぇし門限までには返すよ」
「門限は別にないです…けど」
「けど、何だよ」
「それなら飯食うだけで」
「飯食いに行くんだろが」
「色気ないですね」

シレっと言ってのけやがる。
「それとこれは別だっての。つか、お前、先生はお前をそんなコに指導した覚えは…」
自分のセリフに言ってる途中から可笑しくなってきた。
「ねぇよ」吹き出してしまった。
黒崎もつられて笑う。

「先生が笑ってんの初めて見ました」
ひとしきり笑ったあと黒崎が言った。
「いや、いつも笑ってるけどそうやってゲラゲラ笑うの」
「お前もよく笑うな。教室でも笑えよ」
「おかしくないのに笑えませんよ」
眉間にシワを寄せて鹿爪らしい顔をつくる。
くるくる変わる表情が16歳らしい。

「それにイメージってのがあるんです」
こいつイメージ作りとかしてたのか。
「眉間にシワ寄せてなんのイメージだよ」
黒崎の眉間の緊張がパラリと解ける。
「…そういやなんのイメージでしょうね?なんの路線のつもりだったのかなぁ」
あぁ〜こいつ+天然かも。
ますます赤毛に共感する。
もし許されるならアイツと酒飲みてぇ。
そして「積もる話」とか交してみたい。
ただし割り勘だ。
きっとあるに違いない。
まだまだあるに違いない。
黒崎一護伝説ってやつが。

「片付けないと」
生きながらにしてすでに伝説にされてるとも知らず
天然黒崎は立ち上がって寿司の空箱をコンビニの袋に仕舞いだす。
俺もようやく食い終わっていたのでごちそうさんと言いながら黒崎の差し出す手に蓋を戻したそれを渡す。
「ほかにないかな?」
と黒崎はあたりを見回してテーブルの上にある東仙お手製のチャート式辞表に目を止めた。
「これ…捨てていいですか?」
「あぁ好きにしな」
黒崎はまじまじと紙面を見ている。
「これはじめ見た瞬間泣きそうになりましたマジ」
可愛いこと言いやがる。
「よく見ろ。俺の字じゃねぇだろ?東仙が嫌がらせしやがんだ」
しかしこの誤解もあって本日の運びとあいなった訳だから東仙に感謝する。
今日ばかりは感謝してやるぜ。
「先生、苛められてるんですか?」
「かーいそだろ?大変なんだよキョーショクも」
「辞めないでくださいね。俺が卒業するまでは」
「卒業ン時はお前18か」
想像がつかない。
この年代は本当に二年あればヒヨコも孔雀になる。
「はい」「辞めねぇよ。ただし」
「ただし?」
「学校んなかじゃアイツとベタベタすんなよ。すねて辞めてやるからな」
黒崎は吹き出した。
「先生のそゆとこが好きなんです」
「どういうとこだよ」
黒崎は笑顔のままでコンビニの袋の口を縛って閉めてからちょっと高くあげて見せる。
「じゃあ帰ります。どっか途中で捨てときますね」
「答えてねぇぞ。先生の質問に」
「宿題にしといて下さい。また言います」とドアの方に向かいだした。

諦めて俺も見送ろうと立ち上がると「先生そのカッコで廊下出ないほうがいいですよ」と制された。
見れば確かに俺は昼間っからすでに出来上がっちゃってる人になっている。
シャツのボタンは半分も留めてないしネクタイは首にかけたまま。
髪は多分えらいことになっている。
「じゃあ廊下走んなよ」と言うと
「ケツが痛いから走れません」と黒崎は真顔で言って
ぽかんとしてる俺の目の前でドアの鍵を回してからノブに手をかけ
「ありがとうございました」とペコリと頭を下げた。

「おう、気をつけて帰んな」と声をかけながら、あぁちゃんと見送れてるなと俺は自分で自分に感心していた。




毎朝やってるボタンかけの苦行をここでも敢行し、
ネクタイを締めて髪はもう訳わからなくなっていたので手櫛で適当に抑えてから窓の前に立つ。
カーテンに手をかけた。
部屋を確認する。
失って困るものは…今はここには居ない。
さっき笑いながらあの扉から出て行った。
思い切ってカーテンを開ける。
窓いっぱいに夏の青空が広がっていた。
しばらくその空をぼぉっと見ていた。
雲ひとつない空は見ていても何の変化もないように見える。
だが、そう見えるだけで上空一万メートルでは今もきっとなんやかんや起こってやがるんだろう。
ああそうだ。今日と同じ空は二度とお目にかかれねぇ。
だけど見ている分には昨日の空も一昨日の空も変わらないように見えるんだ。
手の平を見る。空と同じで昨日となんら変わらない。
だけどこの手は知ってしまった。
黒崎の肌、
黒崎の熱、
黒崎の感触。
知ってしまえば知る前には戻れない。
だけどだからといってこの手が見た目に判る変化をしているかといえば…それはNOだ。

だとすれば俺と黒崎がこういう関係になっちまったという事実は俺と黒崎の中にしか残らない。
ただし、黒崎の彼氏が見抜くかも知れないな。
願わくば気付いてくれるなと思う。
ガキみてぇな嫉妬心からバレバレの酷い抱き方をしちまったが、
もし次があるなら今度は壊さないように優しく抱いてやろう。
それ位してやんなきゃ黒崎に惚れる資格なんかない。

好きなやつを困らせるのはやっぱり嫌なんだ。





「夏休み中だからといって身だしなみがなっておらぬ」

指導室の鍵を戻しに職員室に入った俺を出迎えたのは現国の朽木の一喝だった。
やべぇ。いつから来てたんだ?指導室の方には来てねぇだろな…。

「硬いこと言うなって。クールビズクールビズ」
「クールビズと言うのは空調の節約の上に則った略装であろう。兄のようないでたちは略装ではなくだらしないというのだ」
「はい。はい。すみませんでした〜」
こいつは苦手だ。ウル川はまだなんというかツッコミが出来るがこいつはなんかツッコめない。
ツッコもうものなら無礼討ちされそうだ。
しかし話しぶりからするとずっとここに座っていたようだ。

多分。
「兄のクラスの黒崎が来ていたろう?通用口ですれ違った」

ってバレてんじゃん!

「あ〜来てたけど。あれだよ。その、文化祭の」
「黒崎は宿題の質問と言っていたが」


あちゃー。
墓穴だ。いらん言い訳なんかするんじゃなかった。
しかも今の俺の服装だ。
勘のいいこいつなら何があったかおおよそ察しがついているだろう。
やっぱり辞表かよ。
東仙の勝ち誇った顔がよぎる。

「場所をわきまえろ。教育の場だぞ」
あぁ〜。やっぱりバレてるし。
こうなったら張れるだけ虚勢を張ってやる。
「かっ覚悟はしてるぜ」
「生徒の将来を背負う覚悟か?」
朽木は俺の虚勢を見透かすように冷ややかに言い放つ。
「それくらい無くてどぉすんだ」
俺も負けないくらいに言い放ってやった。

朽木はしばらく俺の顔を穴があくくらいに見ていたがひとつふうっと息を吐いて
「なら…いい。ただし場所は選べ」と言った。

「は?」
「人のこと言えた義理じゃない」

そして朽木は俺がここに居るのにここにはいない違う誰かの方をなぜか愛しげに見ながら静かに語り出した。
まぁ俺のほうにその愛しげな目線向けられても困るが。

「私の妻は、ここの卒業生だ」

いい〜っ?
「初耳…」
「当たり前だ。吹聴してまわるものではなかろう。建前は緋真が卒業してから交際したことになっている」
「建前って事は…つまりアレか?」
「私も若かったのだ。それに緋真はあまりに美しく卒業まで待っていたら他の飢えた狼のような男どもに…」
「…で、手出したのかよ」
お前が一番狼だっての。しかもその面で教師の肩書きでって羊の顔被りすぎてますけど!
「手出したとは失礼な。ちゃんと緋真とは同意の上で」
「いや、それでもアレだろ…」
淫行。
「兄に言われたくないぞ。私はちゃんと温泉宿に宿泊して」
計画的。
「そんな目で見るな。私はちゃんと将来の約束をしてから」
確信犯。
「教師だって人間だ」

…そうとも。

「私のことはいい。それより兄は黒崎を…」
矛先が俺に向いた。
あわよくば朽木の懺悔かノロケに持ち込んでこのまま流すつもりだったのによ。
「…あいつの」
だが朽木が正直に話してくれたから俺も正直に話すことにした。
「…幸せのためになんでもするつもりでは居る」
「兄の幸せはどうなるのだ?」
「?」
「そのような言い方では兄が責任を取るために渋渋黒崎の全てを背負い込むようでかえって黒崎が気の毒だ。
誰だって誰かのお荷物にはなりたくはない」
「…」
「話をするがいい。黒崎と。そうすれば見つかる。兄も黒崎も幸せになる方法が」
「…」
まさかそんなことをこの人物に言われるとは思わなかった。

「…そうするぜ」
「なかったことには出来ぬのだから」
朽木は穏やかにそう言った。

「わかってる」

タバコが吸いたくなったが朽木はタバコは嫌いなはずだ。
いつもなら気にせず煙突になるが今日ばかりは敬意を表そう。
朽木は澄ましている。
こいつも…この男も足掻いたのだろう。
ただの男である自分と教壇に立つ自分の間で。
そして「今」を勝ち取ったのだ。そんな朽木の言葉は素直に俺の中に届いた。

今日は行幸が立て続けだなと俺は心からそう思った。
朽木は続ける。

「…と、緋真が言ったのだ」

朽木が愛しげに眼差しを送る「ここにはいない誰か」は朽木の嫁さんのようだ。
その嫁さんに朽木は今も微笑みを投げ掛けている。
朽木はその嫁さんと脳内で今も仲むつまじく並んだツーショットを俺に見せ付けてるつもりだろう。


結局のとこ…

……ノロケかい。


家に帰ってやれよそんなことは!ホンマモンの嫁さんと!

俺はやっぱりすかさずタバコをくわえた。 
朽木の視線が突き刺さったが気にしない。




校舎を出て通用門に向かっているときに携帯が鳴った。
黒崎かなとか少し思ったが俺と同じでダラメするタイプじゃないだろうとも思った。
案の定懸賞サイトかなんかからのインフォメだった。
飛ばし読みして削除すると受信ボックスの最上にさっきの黒崎のメールが表示されている。
そういえばアドレス帳にまだ登録してない。
こちらからはメールなんぞしないがアドレスの登録くらいはやって置こうかと名前をつける欄で一瞬止まった。

生徒と直に連絡取り合うのは禁止だ。
だからこの携帯が人目に触れた場合を考えて黒崎のアドレスは別の名前で登録しといた方がいいんだろう。
そうした方が黒崎にもいいはずだ。あいつにも男がいる。

だが。俺はあえて黒崎一護と打った。
なに、いざとなればすぐに名前なんか書き換えられるしな…とはたしかに思ったが、
多分俺はずっとこのまま書き換えないだろうなとも思った。
ささやかな覚悟が液晶の中で好きなやつの名前の文字を綴る。

据え膳に手をつけて、そのくせびびってるバカの覚悟だ。
好きだと言ったが愛してると言えない、
他の男に嫉妬だけして奪おうとしてない卑怯な男のほんとにささやかな覚悟だ。

朽木に張った虚勢が液晶の文字を通して決意になる。

(ささやかながらも)覚悟が決まった俺は今までの自分がいかに狼を気取ったハイエナに過ぎなかったかを自覚した。

携帯をパチリと折りたたむ。
シャキーンと尻ポケットに格納して俺は歩きだす。

よっしゃ、やってやろうじゃないか。
出席番号2番の赤。

悪いが黒崎は俺が頂く。

毎日同じ空だと思うな。上空一万メートルではすごいことになってんだぞ。

二学期が楽しみだ。
傷心のお前を俺が生徒相談室で慰めてやってもいいぜ。
まぁ、二学期が無理としても来年お前らが二年になる頃には。
いや、それが無理としても卒業までは。

覚悟しとけよ。


青い空に飛行機雲が一筋、まっすぐに伸びているのが見えた。


←バッく
玄関ページにモドル
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