バシャバシャと水たまりを行く。光のところまで。
そういえば
「これも理由あるのか?」
わざわざこんな足場を作るのはかなり面倒くさいのではと思う。
「あると言えばありますが、ないと言えばないです。強いて言えばまぁアタシの趣味です」
なんかシレっと言っている。
「趣味って…」
「つまらなかったですかね?」
「いや、この年になって水たまりで遊ぶなんて普通アウトだから、誰もいないとこで出来て楽しかったよ」
「それは何より」
なにやら満足げ。
「横断歩道も?」
「ハイ。本当は路側帯のブロックもやりたかったんですがあのブロックゴツいんで」
なんていうか…こういう童心というか男子の本懐的なものをこの人はわかってる。
「浦原さんてもしかして傘でチャンバラしてすぐに傘壊したクチ?」 「よくご存知で」 「おもちゃで遊ぶとしたら…」 「出来るものはまず分解スね」 「やっぱり」
この人が現世での生業に駄菓子屋を選んだのはきっと偶然じゃないのだろう。
多くの大人が時間にすり減らされて忘れたものを、人間よりはるかに長い時間を越えながら、この人はずっと持ち続けている。
ようやく目指す場所に到着した。 遠くから見るとぼうっとした光に見えたが、近づくとやはりなるほど亀裂で、避けた隙間から明るいあちら側が少し覗ける。
「これを塞ぐんじゃなくて?」
「ハイ。こじ開けます。何でしたら黒崎サンの斬魄刀で開けて貰っても」
荒っぽ…。
そんなんでいいのかよ…
肩の斬月に手をやる。
「大丈夫なのかよ?向こう側になんもない?」
見せたいものがあるらしいけど。
「壊れるようなものはないですだってこの向こうは」
主はニヤリと笑う。
「上空1500メートルの対流圏っスから」
何…
だと!?
「いっ…せん!?ごひゃく?めぇとる!!?」
「大丈夫大丈夫たかが1.5キロメートルです。富士山ならまだ五合目にも行ってないです」
そうかぁ〜案外低いんだな…って違う!
そういう問題じゃない。
ここが黒腔に似せた勉強部屋出張所で通り抜けたところで虚圏には辿り着けないというのはさっき聞いた。
けれど、まさかそんな思えば遠く(高く)に来たもんだを地でいくようなことになってるとは思ってもみなかった。
「俺に見せたいものがあるって言ったよな」 「ハイ」 「この先にあるのか?」
地上1500メートルの空に。
瞳が笑う。
半分伏せられた虹彩に不思議な色を湛えて。
「間に合ってれば」 「よし」
斬月を構える。
間に合ってて欲しい。
「月牙…天衝―!!」
とたんに足元がぐらつく。
「うわっ!?」
そして今まで立っていた勉強部屋そのものが消えた。
「うわああぁぁぁあぁあぁ〜っ!!!!」
勉強部屋ははしごの役目を終えて霧散する。 足場を失って宙に放り出された。
上空1500メートルに。
いくら死神化しているとはいえ、 いくら主がこういうシチュエーション(妙に高いとこに出入り口を開ける)がお気に入りとはいえ、 この高さは
じょ、冗談キツすぎる。
さすがに地上1500メートル。
風もハンパない。ヅラなら確実飛んでいる。
たちまちバランスを崩して落下する。錐揉みだ。
視界がぐるぐる回る。回転してるのは世界か俺か。回る視界に雲の絨毯が見えた。
その上に柔らかい色。
何だ? 虹?
違う。 虹はあんなんじゃない あんな風に…。
ばふりと包まれ、落下が止まる。
主の空飛ぶ絨毯ならぬ空飛ぶシーツ。
いつも思うけどこんなモノいったいいつの間にどこに仕込んでいるのだろうか。
シーツの上には当然ながら主が鎮座しているのだけど、なんかテンションが高い。いつもより。
「やりました!!見ました?!黒崎サン大成功っス!!」 「え?」 「間に合いましたっ!ほら、見て下さい!あれを、見せたかったんスよ」
もう大興奮だ。 目をキラキラさせて、瞳が…
いつもは瞼に上半分隠れている虹彩がまん丸だ。子どもみたいな目をしている。
そして主が指差す先に― さっきの―虹? 違う、虹じゃない。ありえない。
だって俺が知ってる虹はあんな、
まん丸じゃない―。
見えたのは確かに色は虹。 だけどありえないのは見えないはずの下半分がずっと弧を描いて伸びて繋がり、上半分と完全に円環になっていた。
「虹ですよ黒崎サン、台風あとでここいらすごい水蒸気なんスよ。
それでね、虹って地上から見ると上半分しか見えないんスけど、高いとこから見ると、
ほら下半分も見えるんスねぇいやもう凄い!丸い虹っスよアタシも実は初めて見ました」
俺も初めて見た。
上空1500メートルの丸い虹。
そしてアンタの瞳の丸い虹も。
これを見せようとしてくれたのか。
「それでね、黒崎サン。あと…ですね、」 シーツは風任せに滑空する。 その上に主は膝を揃えて座り直した。 「何?」 バンと手を付く。 「すみませんこれを本当は先に言わなきゃなんなかったんスけど…はしゃぎすぎちゃいまして…」
「まだ…なにかあんのか…?」
けれど上空1500メートル…高度下がって今1000メートルくらいか。
まぁいいけど。
こんなとこで何言われてももう水に流すじゃなくて風に吹き飛ばすと思う。
「黒崎サン、お誕生日おめでとうございます」
その言葉。
うっかり。 うっかり風に流しとばすとこだった。慌てて手繰り寄せる。
「知らないと…思ってた…」
「そうだろうと思ってました」
雲の絨毯の切れ目を流れるように落ちる。さっきより風が弱くなって来たような気がする。
「だからサプライズをやろうと思って今回嘘の黒腔ツアーにお誘いしたんです」
確かに凄いサプライズだ。
もう喧嘩までやらかしたもんな…。
「とは言っても思いついてから時間なくて色々不首尾でご不快もあったと思いますがすみませんでした。3日くらいでこれ作ったんで」
「そんな即席なのかよ!?」
「だって、これ思いついたの黒崎サンの物理の宿題見せて貰ってたときですもん」 「まじで!?」 「スペクトルと磁場の」 「あれか?あれ先週の水曜か木曜のじゃねぇか!3日くらいしか…」
「すみません、もうギリギリまで何していいか決められなくて…黒崎サンになにして差し上げたら喜んで貰えるかわからなかったし。
で、ちょうどタイミング良く台風が今日通過する予報だったし、だったらやるかってほとんど見切り発車みたいにやり始めました」
ぽりぽりと顎を掻く。
「虹のリングだったら、金環日蝕のリングより大きいですしいいかなって思ったんですけど、プレゼン自体が大きい穴だらけでしたね…」
照れくさそうに首をすくめた。 「…そんなこと、ねぇよ…」
「そもそも、誕生日知っててくれてただけでめちゃくちゃ嬉しかったし」 「あははぁ。だったら今年はこんな小細工なしに真っ向におめでとうってお祝いするだけでも喜んで貰えてたかも知れないですね」 「でも、来年だったら今日台風来るかわからないじゃんか」 そりゃそうですね―瞳の中の虹が笑うと見えなくなる。 見上げれば空にかかる七色のリングも薄く消え入るところだった。 そのあとには台風一過の空。 あんなに荒れていた朝がうそのような綺麗な夕焼け。
この日の空を俺はずっと忘れないだろう。
「さて、帰りますか」 風任せに見えてシーツは舵があるように遠くに流されることもなく、見慣れた街が眼下に近づいてきた。
「一緒に入るんでしたよね」 「え?なに…が?」 「え?朝言ってましたでしょ」 朝…?
脱衣場で囁かれた言葉が蘇る。
顔が火照る。
「いやいやいやいや無理っしょ。だってテッサイさんとかジン太とか雨とか」
朝は居なかったが、主の小芝居(仕掛けはでかかったけど)に付き合って席を外していただけならもう商店に帰って来ているだろう。 「テッサイさんたちなら今日関西のほうで大きなお祭りがあるんで出かけてるんスよ」
「えっ…?」
「その点はちゃんと、ぬかりないです」 夕焼けに照らされてるなんてごまかせないくらいに顔の火照りが引かない。
「さて、あのおひきずりサン姿の黒崎サンの体が待ってますよ〜」 「ば…ばかっ!」
ごめん遊子。
多分俺、今日中にそのケーキは食べられないと思う。
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