黒蝶の夢
【 後 編 】


しばしの後恋次は顔を上げると、確認するように一護の
顔を覗き込んだ。
温もりの余韻に浸っているかのように瞼を震わせている
一護の背中を、優しく撫であげる。
その指の感触に一護は、ゆっくりと瞳を開いた。
真っ直ぐに向けられる強くも優しい紅の瞳に、潤む琥珀の
視線が搦め捕られる。
 
「大丈夫みてぇだな」
ふっと口元を緩めて、恋次の大きな手が一護の指を取った。
“力”が行き渡った事を確かめるように指を握りこむ。

「大丈夫だっ、て」
少し掠れた声で答えながら、意識をはっきりさせるように
一護は深い呼吸を繰り返す。
それに恋次は漸くいつもの笑みを見せた。
「もう少し休んでろ」
にやりと笑って今度はがしがしと一護の髪を撫でる。そんな
恋次に何か言いたそうに一護は口を開きかけて、拗ねた
ような表情ですっと膝から降りた。
背を向けて床に落ちていた共布の腰帯を拾うと、上衣に袖を
通し帯を緩く巻き付ける。

「一護」
背を向けたままでいると、恋次の笑みを含んだ声がかかかる。
渋々といった感じで振り向いた先に、自分の膝を叩きながら招く
恋次の姿があった。
一護はしばし躊躇うように瞳を揺らがせていたが、ぽすっと頭を
恋次の膝に預けた。
凭れ掛かる橙色の頭を恋次の指が優しく梳いていく。
その感触の心地良さに、一護はすっと眼を細めた。
「下は大丈夫だったか?」
「あぁ」
短い答に、そうかと呟いて恋次は窓の下を見遣った。それ以上は
何も聞かず、ただ黙って一護の髪を梳き続ける。
一護も何も言わず、優しい指先に身を委ねていた。
これ以上問うても、答えても、何も出来ないのが判っていたから。

『仙は自ら人に関わってはいけない』
それは、恋次に会った時に最初に言われた言葉。
そして、恋次の側に居ようと決心した時に突き付けられた言葉。
あの時、それでもいい、と一護は言った。
自分の全ての愛しい人達に二度と会えなくても、後悔はしないと。
その想いは今も些かも揺らがずに、一護の胸にあった。

そっと頭を上げて、一護は夜空を見つめた。
煌々と紅い月が、よそよそしいまでに冷然と佇んでいる。


     ―まだ、あんなにも遠い


遥かな月明かりを見上げながら一護は、思わず唇を噛み締めた。
この時間、この場所でしか見られないこの風景。
奇跡的に垣間見たこの風景の中で生きて行きたいと願い、そして
今一護はここに居た。
でも、と言う想いが一護の心を占める。
まだ全然追いつけない、と苦い想いが胸中に満ちる。焦る必要は
ないのだと思っていても、どこかに急ぐ想いがあるのは確かで。

変わらず、窓の外を見遣っている恋次に視線を移す。
月明かりの中、確かにその風景の主として悠然と佇む師の姿を
仰ぎ見る。
届かない、と言う想いがまた一護の胸を過ぎった。
ふと、恋次の視線が一護に向けられる。
どうした、と何もかも包み込むような瞳が問いかける。
それに軽く首を横に振って、一護は顔を隠すように膝に頭を預けた。
こう言う時、素直に振舞えない己に唇を噛み締める。
容易には埋まらない彼我の差に、つい反発めいた態度に出て
しまう。
帰りを待たれるのも、まだ未熟な術で消耗してしまう己を気遣われる
のも、感謝の気持ちが溢れているのに。
 
考えに沈む一護に、恋次の手が宥める様な動きに変わる。
全てを赦すような温かさに、一護の躯から余分な力が抜けていった。
「このまま、寝ていいからな」
優しく降る声に、顔を上げた一護は恋次を見つめた。
声と同様に優しさの滲む視線に、今度は素直に顔が綻んだ。
ゆっくりと、落ち着かせるような恋次の気に包まれて、張り詰めて
いた一護の気が解けていく。
 
今はまだ。
でもいつか、必ず。
この風景を想うままに飛ぶ日を夢見て、一護は静かに瞼を閉じた。


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東雲さんありがとうございました。